Stardust Crown
しばらく前のことになるが(とは言っても今年に入ってからのこと)、東京電力の電気史料館を見学する機会があった。
史料館においては、電気の歴史を辿ることになった。自分の印象に残ったのは、エジゾンと送電システムに関するスペースである。そこでは、はじめて配電システムを創始して暫くたった後の、直流方式と交流方式との戦いについて展示してあった。
簡単に確認しておこう。電圧が一定である電流を直流電流という。対して、交流電流では電圧が変動する。電池などは直流電流を供給するし、家庭用コンセントからは交流電流が流れてくる。端的に言ってしまうと、利用に際しては直流の方が便利なことが多い。しかし、高圧にする必要のある送電を考えたときは、変圧が容易な交流の方が実用的になる。
このように、今から振り返ると、また、実は当時も多くの技術者たちが気付いたことだが、配電システムとしては、交流方式の方が優れていた。しかし、エジソンはいわゆる電気関連の技術の「パイオニア」であって、直流方式のために、莫大な資本投下をしてしまっていた。それに、やはり天才発明家のエジソンには大きなプライドがあったのであろう。――彼は直流方式にこだわった。
そして、交流方式を潰すために、なりふり構わぬ“妨害”を行うことになる。例えば、新聞記者の前で、交流電気で多数の動物を殺して見せた。さらには、死刑に交流電流が採用されるように仕向けておいて、「死刑に使われるくらいだから交流電気は危険である」と主張したという。彼らには、交流電気の(直流電気との比較においては)根拠のない“危険性”を主張するくらいしかできることが残されていなかったのだろう。今日、我々一般に定着している極めて好意的な“発明王エジソン”のイメージとはまた趣の異なるエピソードである。
そう考えると、“自動車王フォード”の話も思い出す。彼も、ベルトコンベア―方式を考え出し、安い車を売り出した。労働者の賃金も、当初のうちは画期的に値上げして、工業労働者の流れを一つ作り出したという。しかし、初期に作り出したT型フォードにこだわり、不況に落ち込むと、ワンマン的な経営の弊害が目立つようになってしまったと聞く。
どんなことでも、特にそれが偉大といえることであればそれだけ、成し遂げ、築き上げたものは守りたくなるものだ。もちろん、偉業は偉業である。だから、明るい夜をもたらし、さらに“電気を売る”という画期的な発想をもたらしたエジソンが、偉人として歴史に刻まれていることには、私は手放しの賛意を持っている。(人間は数十万年以上夜は寝ていたのに、と語りだす評論家の先生たちもいらっしゃるだろうが……。)
にも関わらず、何らかの技術を開発しうる、あるいは何かを創造しうるすべての人間にとっては、特に考えさせられる逸話だと思うのである。つまり、何か小さなことでも――発明であれ、思想であれ、あるいは制度であれ――我々は時間をかけて造りだした“もの”を守りたくなる。もちろん、それは自然な感情だし、多くの場合、大切なことでもある。しかし、次の一歩を踏み出すためには、時には、自分で創出したものを壊す覚悟も必要とされるのだ。偉人たちでさえ誤った先例から、そんなことが学べるのではないかと思った。
“直交論争”は結局、交流方式側が長距離送電に成功するなどして、エジソンの敗北に終わった。なお、余談だが、最近では直流送電も見直されつつあるらしい。(一度高圧に変換した後は、直流の方が効率よく送電できるそうだ。)先端の技術というのは移ろいゆくものなのだ。