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人間のコミュニティ帰属欲求を確認しながら、インターネット上のコミュニティを分類し、特徴を述べてみる。
コミュニティは、通常“共同体”と訳され、何らかの価値観を共有している集団を指す。
人間は社会的動物であるから、ほとんどの人が“コミュニティ帰属欲求”をもつ。つまり、自分と似通った価値観や目的をもつ何らかの集団に属し、仲間として認知されたい、と本能的に考える。
例えば、学校や会社、あるいは家庭といった組織自体が一つのコミュニティである。もちろん、生活のためや人生設計のため、という部分もあるが、こういった組織での活動を楽しむこと自体も奨励され、実際に多くの人が適応していく。
こういった半ば義務的なものだけではない。中学生・高校生の多くは部活に入るものだし、大学生や社会人でもサークルに所属する。これは何も内申書対策や特定の技能を磨きたいという欲求ばかりから来るものではない。共通の目的をもって仲間と活動すること自体が楽しいのである。
このようなコミュニティは前述でもわかるように単一とは限らない。一般的には、所在地・所属などから必然的に決まるコミュニティと、自ら任意で参加するコミュニティに大別できるだろう。ここでは便宜上、前者を必然的コミュニティ、後者を任意コミュニティを呼ぶことにしよう。任意コミュニティは志向によって選ばれる度合いが大きい。
特に任意コミュニティでは、価値観を共有してくれる仲間がいることが出発点である。自分の思想や感情などを表現したいというのも人間の欲求の一つだが、共通の知識・興味・背景をもつ相手にはそれがより容易になるのである。(とはいえ、コミュニティに参加した後も、話題がそのコミュニティ特有の価値観に関わる問題に限定されるわけではない。)
さて、人間は効用を得るために(自分の“満足”のために)何かをするといってよいのだが、それには当然コストが必要である。これは、コミュニティ参加においても同様といえる。
人は、コミュニティ参加によって、コミュニティ帰属欲求を満足させることができる。だが、仲間として認知してもらうためには能動的な働きかけが必要となる。特に、コミュニティ所属欲求は仲間として認知され続けることが肝要なので、日常的・定期的なコミュニケーション交換を通して、日々帰属を更新していかなければならない。
したがって、コミュニティと共通する価値観を持ちつづけ、それに関する情報を発信したり、互いに意見したりし続けなければならないわけである。当然、これは相応のコスト(時間や手間暇)を要する。このコストよりも、帰属によって得られる満足が大きいと期待されるとき、人はコミュニティ参加に踏み切るわけである。
さらに、ある集団がコミュニティとして確立してしまうと、それは少なからず排他的な性質を帯びるようになる。コミュニティは外部への情報発信の際、その共有する価値観を標榜するが、それは必ずしも社会全体とは一致しない。同時に、コミュニティのメンバーが仲間として認知されていると満足するには、外部の人への反応がメンバーのそれよりも知覚できるほど冷淡でなければならない。
このようにして、コミュニティに属していない個人には近づきがたい雰囲気をもつようになるのである。これは、コミュニティ参加の敷居の高さともいえる。逆に、このような排他性が高ければ高いほど、コミュニティに参加した個人の帰属欲求は満足される度合いが大きくなる傾向をもつ。
このようなコミュニティ帰属欲求はいわゆるリアルな空間だけに止まらない。インターネットなどのヴァーチャルな空間においても顕在化する欲求である。特に、人間は自分の内面を常にさらけだすわけではないが、リアルな世界での“自分”と、ヴァーチャルな世界での“自分”とは必ずしも一致しないのが普通であろう。したがって、インターネット上でのみオープンにできる(したい)価値観に基づくコミュニティ所属欲求は、インターネット上でのみ発現する(でしか発現できない)といえる。
したがってインターネット上のコミュニティの特徴を考えることにはそれなりの意義があるのではないか、というのが今回の出発点だった。以下では、これまでの視点を踏まえて、現在のインターネットにおける様々なコミュニティ参加の形態をまとめてみよう。
一つのサイトを中心にコミュニティが築かれる。(よって、そのサイトに掲示板やチャットなどが設置されている必要がある。)掲示板に定期的に投稿すること(あるいはチャットに参加すること)で、当該サイト管理人に“常連”と認知されるのである。(もちろん、常連同士も互いに認知し合う。)さらに、サイト管理人同士が互いのサイトの常連になっているのもよく見られるパターンである。
掲示板などはサイト管理人が訪問者の反応を期待して設置するものである。そして、そこへの書き込みは、サイト管理人(または常連)に対して、訪問者が自分という閲覧者の存在を認知してもらいたいと判断して行われるという側面をもつ。したがって、多くの場合、サイト管理人がコミュニティのリーダー的存在となる。常連の一人がその役割を担うこともあるが、それは管理人が(忙しいなどの理由で)掲示板での対応が懇切丁寧でない場合に限られるようである。
ただし、掲示板の、管理人に対する連絡手段としての機能は多少損なわれる恐れはある。コミュニティの排他性が、新規訪問者の書き込みへの躊躇の原因となってしまう危険性があるのだ。また、管理人や常連があまりに“サイト・コミュニティ”を身近に捉えすぎると、単なる訪問者へもコミュニティ・メンバーと同等の義務を要求してしまうこともある。(いわゆる“キリ番踏み逃げ”への過度な非難など……。)
一方で、いったん常連と認知されてしまうと、コミュニティへの参加条件をクリアしたものと安心して、投稿の話題がサイトのテーマから離れてしまうことも多い。特に、自分の日記でしかない内容(概ね愚痴)を長々と掲示板に投稿する常連もいて一部のサイト管理人を困らせているようだ。このようなことが度重なると、コミュニティの結成条件であった“共通の価値観の共有”が疑われてしまうため、メンバーの多くが幻滅してしまう原因になりかねない。
また、掲示板は管理人宛という性質が大きいため、サイトを持たない訪問者同士のコミュニケーションが取りにくいというのも挙げられるだろう。
いずれも、サイト同士に繋がりをもたせることで緩やかなコミュニティを築く。サイト管理人がもともと同じコミュニティのメンバーであったか、あるいは、サイトの扱うテーマ(またはコンセプトやポリシー)に共通部分があるか、いずれかの場合が多い。
これらの締結自体はサイトを保有していないとできないが、その後の更新がないのでコミュニティとしての機能は弱い。さらに互いのサイトの常連になるなどしないと持続しないだろう。
また、このようなサイト間の繋がりは、サイトのコミュニティ構築だけに関係しているわけではない。つまり、訪問者に対して、よりサイトの価値観をわかりやすくする役目も果たしている。サイトは、リソース的なコンテンツだけではなく、他のサイトとの関係性の提示なども含めて、サイト運営者の価値観を発信しているのである。
最近急速に普及しているようである。ウェブログとは、簡潔にまとめれば、トラックバック機能に特徴をもつウェブ日記と呼べるだろう。従来の日記と掲示板を融合させたような形態であり、コミュニティ形成に必要と思われる各種サポートがある。
ウェブサイトと比べて簡単に保有できるようだが、基本は日記なので定期的な更新が求められる。(もちろん、サイト管理人がウェブログを併設する場合も多い。)
2ちゃんねる等の匿名掲示板群に特有で、“常連”に近いが明示的に認知されることはない、特殊なコミュニティである。発信要求を満足させたいということ、また、気軽にコミュニケーションの相手を見つけることができる。また、負の感情や社会的に問題が多いとされる価値観をぶつける場として、匿名性は不可欠な条件であろう。
ただし、“自由”の代償として(相手も同じなので)、自分の望むコミュニケーションが成立せず、かえってストレスが貯まることも多いのではないだろうか。いわゆる“荒らし”にも対処しにくい。