Stardust Crown
初版:1996. 10/23
第二版:2002-11-23
どん、どん、どん。窓を叩く音だろうか、違う。玄関の戸を叩く、低い音だ。
「マイルスーン、いるのか。マイルスーン。帰ったぞ。扉を開けてくれい。」
どん、どん、どん。戸を叩く音だ。マイルスーンはあわてて跳ね起きると玄関に走った。
「マイルスーン。帰ったぞ。ラルスートじゃ。」
マイルスーンは戸を開けて迎えた。
「お帰りなさい、ラルスート師匠。」
気を静めて微笑む。ラルスートは、ふうっと息をつき家に入る。
「いやいや、ソセムにもこまったもんじゃ。老いぼれのくせに……。」
ぶつぶつ言いながら居間に向かう。マイルスーンはかなり緊張して従った。居間につくと、ラルスートはどっかりとソファに腰を下ろした。マイルスーンも続く。少し声を上ずらせて尋ねる。
「それで師匠、そ、ソヘム、ソセル、でしたっけ。」
緊張していて巧くと発音できない。
「ソセムのことか。」
「そ、そうです、そうです。ソセムっていうのは何者ですか。」
ラルスートはあごにてを伸ばして少し考えた。おや、とマイルスーンは思った。あごひげがなくなっている。
「し、師匠。」
「あ、ああ。」
ラルスートは苦笑した。
「ふむ。ソセムがあごひげを剃ったほうがよいというのでな、剃ってみたんだが……。」
「い、いえ、いえ。かえってよくなりましたよ。それにちょっと焼けましたね。」
ラルスートは少し色黒くなっていた。
「わかるか、海岸の街だったんでな。そう、ひげの話じゃがな。あやつ……。」
しかしマイルスーンはほとんど話を聞いていなかった。憑依、本当にその呪文を自分に対して使おうとしているのか。それにリース、あの赤い髪の女は何者なのだろう。マイルスーンはそればかり考えていた。
「……マイルスーン、マイルスーン。これ、聞いておるのか。」
マイルスーンはぼうっとしていたので、ラルスートの呼びかけにしばらく気付かなかった。
「は、はい。」
「マイルスーン、言い付けはきちんと守ったじゃろうな。守ったのか。」
「あ、はい。もちろん守りましたとも。」
「ふーむ、そうか。」
ラルスートは何気なく部屋を見渡すと、ソファの上に赤い髪の毛を見つけた。不意に立ち上がってそれをつかむ。冷たい声で静かに聞く。
「これはなんじゃ。誰かがきていたのか。それとも他に何かあったのか。」
マイルスーンはぎょっとした。横目でラルスートの顔色を伺って考える。「何か疑われるようなことがあったら、棚のブランデーを少し呑んでしまった、と言いなさい。」というリースの言葉を思い出して答える。
「あ、あ、その、すいません。台所のブランデーを呑んでしまいました。」
平静を繕って言ったつもりだったが、いかにもびくびくしている、という口調だった。髪の毛をテーブルに置き、ラルスートはマイルスーンの顔をつかむ。中腰になって、マイルスーンの心臓は早鐘をうち、身体中から汗がにじんだ。
「ブランデーを飲んだのか。」
感情のない声でラルスートが尋ねる。
「はい。すみません……。」
ラルスートもう片方の手でマイルスーンの下のまぶたを押し、瞳を覗き込んだ。しばらくして放す。マイルスーンはどかっとソファに崩れ落ちる。声もなく、ラルスートを見つめる。ラルスートは苦笑いして言った。
「すまん、すまん。ブランデーを飲むな、というのを忘れておったわ。あれには少し魔法がかけてあってな。あれは睡眠薬で一時的に魔力を高める作用があるのじゃが、副作用もあってな。髪が何本か脱色して抜け落ちてしまうんじゃった。いやはや、疑ってすまなかった。まあ、よい。また来週に出かけるんでな。そのときにもっと美味い酒を買うてきてやるわ。」
マイルスーンはそっと安堵のため息をつき、口を開いた。
「来週もまた出かけてしまうのですか。
「うむ。ここいらの魔術師の会合はな、毎年三周連続で、三日づつ開かれるのじゃ。来週はその二回目なのじゃ。おまえも、そうじゃな次の次あたりから連れて行ってやろう。しかし、まだまだなどとは思うなよ。おまえが会合に出席する日はすぐ来るだろうて。」
次の日から注意して師匠を観察したが、何かを企んでいる、というようなところはない。そうして次の週、ラルスートはまた出かけた。
「よいか、今回もあの三つのことをしっかりと守るのじゃぞ。さすれば酒を買ってきてやるからな。わしが戻ったら、共に酔うことにしよう。」
「わかりました。」
「前回は疑ってすまなかったな。このへんには赤毛の魔物がでるのでな。女の姿をとって魔力を持った若者をだまし、その血をすすると伝えられておる。それで心配になったのじゃよ。まあ、今度も何事もないとは思うが、気をつけてな。」
それを聞いてマイルスーンは真っ青になった。赤毛の魔物……、女の姿……。まさか、リースが。しかし、ラルスートはすでに背を向けて歩みだしていたので、自分の弟子の動揺した表情に気付かく様子はなかった。
ばたん、と戸が閉まったあとも、マイルスーンはしばらく動けなかった。赤毛の魔物……、女の姿……。まさか、リースが。しかし、危害を加えるようなことはない、そう確認したはずではないか。その疑惑が、繰り返し、繰り返し沸き上がってくるのだ。マイルスーンはゆっくりと書斎に向かった。さっと本棚を見渡し、「ルフィア湖の魔物」という書物を見つけると、手に取る。目次で確認し、ぱらぱらとページをめくる。
「赤毛の魔物/ルフィア湖周辺の森林に生息。その正体は不明だが、伝説によると、赤毛の美しい女に化け、魔術師の血を引く若者に接近する。あらゆる手段で惑わして、親族などの親しい間柄の人物を殺させる。すると正体を現して事実を告げ、苦悩する若者を見て楽しむ。それからその生き血をすするという。こうして毛は赤くなり、真紅になったときに湖を呑み込む。この伝説から、おそらくこの魔物はアゾグ系の特徴を有した……。」
マイルスーンはそれを何度も読み返す。さらに他の本でも詳しい記述を探し、むさぼるように読む。「カルレオ伝」には次のような記述があった。
「魔道師カルレオは、女の髪の毛を純度の高い食塩水に浸すことで『赤毛の魔物』の正体を見破った。それによって髪は真っ白になるのである。そして七十七本の魔法の矢を放ったが、うち喉と胸の中間部に放った最強の青色の矢が皮膚を破り、酒樽にすると七十七杯分もの血を流したという。魔物は逃走し、彼は『赤毛の魔物』に殺されなかった始めての人間となった……。」
ふと気付いて本を閉じる。マイルスーンは六番目の引き出しを開けた。「禁書」と記された本を取り出し、ページをめくる。第六百二十八ページだ。……ない。六百二十七ページから、急に六百九十三ページに飛んでいる。ページが破られた後があった。師匠が破ったのだろうか。しかし、なぜだ。見つかるのを恐れたからか、それともこんな魔法は使うまい、と思ったのか。きっと両方だろう、師匠はマイルスーンが余計な心配をしないようにページを破り捨てたのだ、絶対に使うことのない術だから、惜しくなかったのだろう、マイルスーンはそう判断した。
忘れずに薪をくべながら、あやうくだまされるところだった、とマイルスーンは考えた。どうしてあんな女を信用してしまったのだろうか。やはり、あの容貌のせいだろうか。きれいな人だったな、とマイルスーンは思った。しかし、もう二度と彼女を家に入れてはなるまい。まったく、女の色香に騙されて、あの人柄の良い師匠を疑うとはなんて愚かだったのだろうか。マイルスーンは、そんなことをあれこれ考えながら床に就いた。
夜中にふと目覚めると、リースが枕元に立っていた。悲しげに訴える。
「マイルスーン。わたしを信じてくれないの。」
その瞳は涙で潤んでいる。窓からの月光がリースを包んでいた。リースはそれ以上なにも言おうとはしない。ただその美しい顔に悲しみを湛えているだけだ。
マイルスーンは跳ね起き、寝床から降りた。リースはいない。目を凝らして探すが、彼女は消えていた。夢だったのだろうか。窓からの月光が、部屋を照らしている。ふと視線を落とすと、赤い髪の毛があった。注意深く、それを拾い上げ、月光にかざす。長い髪である。マイルスーンのものではない。リースのものなのか。それでは、先ほど見たものは、夢でも幻でもなかったのだろうか。
マイルスーンは台所にいた。コップを取り出し、中に水を入れる。それに食塩を少しずつ加え、スプーンでかき混ぜて溶かす。もう溶けなくなりはじめたところで、マイルスーンは赤い髪の毛をとりだして中に浸した。……何も起きない。赤いままである。
「リースは魔物ではないんだ……。」
マイルスーンが、うれしいような、情けないような気がしてつぶやいたとき、玄関の戸を叩く音がした。リースだろうか、マイルスーンはすぐに玄関に向かう。
「誰だ。」
言いながら、覗き穴に目を近づける。やはりリースだった。
「マイルスーン、わたしよ、開けて。」
マイルスーンはリースを眺めていた。きれいな人だな、と思いながら。
「マイルスーン、聞いているの。早く開けて。」
リースの容姿は優れている。しかし、彼女が語っていることは本当に真実なのだろうか。もしかしたら、リースもまた他の誰かに騙されているのかもしれない。けれどもそれを知ることはかなわない。マイルスーンはゆっくりと扉を開いた。
中に入ってくるリースを、マイルスーンは気付かれないように慎重に観察した。喉と胸の中間の部分に傷、もしあったらどうするか、そんなことは考えないで見た。ルビーのネックレスのせいでよく見えない。不意にリースが振り向いた。ネックレスが赤い光を放って宙に浮く。その隙にリースの肌を見た。純白に輝いており、傷はない。すこし胸を見てしまってマイルスーンは顔を赤らめたが、何気なく振る舞った。
それからまた居間に入った。それからリースと話をした。
「それで、リース。もし君の言うことが真実だとしたら……、」
「真実よ。」
リースが遮る。
「それなら、なぜ君はそんなことを知っているんだい。そして、どうして僕に知らせようとするんだい。」
「それはね、」
リースがちょっと遠い目をして答えた。
「わたしの家は神官家、ミスリーアの神官家だったの。母はまだ若いころに死んでしまったらしいけど、父とわたしで幸せに暮らしていたの。あの時の父は、ある死人使いの捜査をしていたわ。ある日、父は死人使いを追いつめた、と言って出かけた。そして……。二度と帰ってこなかった……。」
「そ、それで、まさかその死人使いというのは……。」
マイルスーンが震える声で尋ねた。リースは目に涙をいっぱいにして、きっぱりと首を横に振った。
「いいえ。ちがう。ちがうわ。」
「え。じゃ、じゃあなぜ。」
リースはゆっくりとマイルスーンを見つめて答えた。
「わたしの父の名前がラルスートだったの。」
衝撃が走った。師匠が、ラルスートが、リースの父だったとは。
「でも違う。きっと死人使いが父の身体を奪い取ったんだわ。わたしの父はもうこの世にはいない。ラルスートは父の敵なのよ。」
マイルスーンもリースの瞳を黙って見つめ返した。
「それからわたしは、死人使……、いえラルスートを追ったの。そうするうちに、だんだんラルスートの秘密がわかってきたわ。死人使いがどういうものかも。」
マイルスーンは話に聞き入っていた。
「わたしは父が年取ってから生まれたから、父はそんなに若くなかったの。それに死人使いの術の中には若さを失ってしまうものもあるわ。だからそろそろ代わりの身体が欲しくなったのね。ラルスートはそれを探していたの。きっと虐殺されたあとの都市に生き残ったものなら、殺しても騒がないと思ったのね。ラルスートはファタスファにも行ったのよ。ラルスートの家に他の誰かがいるのは滅多にないことよ。あなたもこの屋敷の、守護の魔力のことは聞いたでしょ。だから今はチャンスなの。これでわかったかしら。」
「そうか……。そうだったのか。」
そうだ、あの言葉だ。『そうじゃな次の次あたりから連れて行ってやろう。しかし、まだまだなどとは思うなよ。おまえが会合に出席する日はすぐ来るだろうて。』これは、考えて見れば、自分が自分ではなくなってということなのだろうか。まさか……。恐くなってきた。このままでは殺されてしまう。そういった様子を、リースは冷ややかに眺めていたが、死の恐怖にとらわれたマイルスーンは、全く気付かなかった。
「そ、それで、どうすれば助かるんだ。何をすれば殺されなくてすむんだ。」
リースは微かに笑みを浮かべると答えた。
「薪をくべるのをおやめなさい。」
「薪をくべるのを止める、どうしてだい。なにか問題でもあるのか。」
リースは少し眉をひそめて言った。
「あなたはあの本を読まなかったの。『…油断させて薬品をあたえよ。固・液・気、いずれの形でもよい。……』とあったでしょ。薪の上げる煙こそ、その薬品なのよ。憑依の儀式を完遂するには、犠牲者の肉体と、魂つまり心臓との繋がりを弱めなければならない。そのためのものなのよ。」
マイルスーンはびっくりしてリースを見つめ、うなずいた。
「ああ。そう言われてみればそうだ。どうして気付かなかったんだろう。」
それから、マイルスーンはリースにいくつかの魔法を習った。
リースと過ごす時はすばらしく、マイルスーンはもうラルスートのことなんかは、どうでもよくなってしまった。だが、やはり時はすぐに流れる。
「マイルスーン、もう帰らなくてはならないわ。でも、また来られるから心配しないで。三回目の会合のときに来られるから。」
マイルスーンは名残惜しそうにリースを見つめた、なんて美しいんだ。リースは笑って、そしてまた、すぐに真剣になって言う。
「いい、マイルスーン。わたしが来たことは絶対に言ってはいけないわよ。それと、台所の薪は庭に埋めておきなさい。ラルスートに身体の調子のことを聞かれたら、なんだかだるくて、すぐにぼうっとしてしまう、と答えるのよ。怪しまれないようにね。それでなにか薬を渡されても、飲んだ振りだけして捨ててしまうのよ。わかったわね。」
マイルスーンはうなずいた。すでに全面的な信頼を彼女に置いていたのだ。
その夜にラルスートが戻ってきた。二人は遅くまでラルスートの買ってきた酒を飲み、ぞんぶんに酔った。ラルスートは、おもしろい話や、興味深い話などの旅の体験談をたくさんしたが、マイルスーンの耳にはほとんど入らなかった。ラルスートは、なぜかその様子に気付いても何も言わなかった。
リースに言われた通りに薪は埋めておいたから、ラルスートは何も尋ねなかった。ただ、ラルスートはマイルスーンに体調について聞かれた。
「はあ。それが、最近なんだか、だるくて、すぐにぼうっとしてしまうんですよ。」
マイルスーンは言われた通りに答えたが、そもそもマイルスーンは、暇さえあればリースのことを思っていたから、別にその言葉を怪しまれることもなかった。そして、薬だといわれてラルスートに渡された飲み物や、粉末も飲む振りだけをして捨てた。
こうして魔術師の会合も三回目を迎えた。ラルスートは、いつもの三つの注意を与えて、出かけて行ったが、今度は夕方だった。雲行きが怪しく、いつ嵐がくるかわからないから、早く出かけるらしい。リースは明日の朝来ると言っていた。その前に一眠りしておくか、とマイルスーンは寝室のベッドに横になった。最近は色々な仕事があって疲れてしまったのである。それに、リースのことをずっと考えていたのでなかなか寝付けなかった。こうして、もうすぐ来るとわかったときに急に眠くなるとは皮肉なものだ。
マイルスーンは独り立っていた。静寂のもとで赤い雨が降っている。地面をうねうねと、しかも音もなく、赤い水に打たれながら幾百ものヘビが這っていた。何十匹かはマイルスーンに向かって来る。マイルスーンは、静かにそれを眺めていた。きれいなヘビだ。
突然、青い雷と雷鳴が響いた。あたりが真っ青に染まり、ヘビは消える。青くなった雨がざあざあと音を立てた。前方に、青い髪の乙女がぼんやりと姿を現す。
「マイルスーン、わたしよ……。」
マイルスーンはがばっと起き上がった。ざあざあと雨が降っている。この分だと嵐が来るかもしれない。身体は汗でぐっしょりとしていた。何か夢を見たような気がする。何の夢だったか。と、戸を叩く音がした。リースに違いない。マイルスーンは急いで玄関に走った。ずぶ濡れになってしまったらかわいそうだ。
「今開けるよ。」
確認もせずにマイルスーンは扉を開いた。青い雷光が閃く。そこに立っていたのは、青い髪の乙女だった。
「わたしよ、マイルスーン……。」
さびしそうに微笑んで告げる……。
「マイルスーン、マイルスーン。起きて。」
マイルスーンはかっと目を開いた。寝室だった。枕元の若い女が不安そうにマイルスーンを覗き込んでいる。リースだ。リースは、そっとマイルスーンの手を握った。
「マイルスーン。気付いたの。二日も寝込んでいたのよ。もう時間がないわ。」
二日も。そんなに寝ていたのだろうか。いや、それよりもなぜここにリースが。
「君はどうやって入ったんだい。」
マイルスーンは額の汗をぬぐいながら尋ねた。
「あなたが何度も入れてくれたからよ。だから魔力が弱まってきているの。」
「そうなのか。」
「ええ。それよりも早く水晶球を壊さないと。ラルスートが帰ってきたら、あなたは殺されてしまうわ。」
マイルスーンは状況を思い出した。早く逃げた方がいいんじゃないか、と思った。
「水晶球。それは何だい。どうしてそんなものを壊さなくてはならないの、それよりも早くいっしょに……。」
リースは素早く遮る。
「憑依の術に心臓を使うと言っても、魔術をかける本人が自分の心臓を取り出すわけにはいかないのよ。そんなこともわからないの。」
「あ、そうか。憑依の術に使う心臓の代わりの魔法具だね。それをぼくの胸に埋め込むのか。そうしてラルスートは新しい肉体を得るのか……。」
言っているうちのその言葉の恐ろしさに気付く。対して、リースはうなずいて答えた。
「その通りよ。だから、水晶球にラルスートの魂が込められているはずよ。」
「でも、それなら今のラルスートの身体にあるんじゃないの。」
リースは首をふった。
「今のラルスートのなかの水晶球は端末のようなものにすぎないわ。新しい肉体には、新しい水晶球が必要だもの。」
「そうなのか。でも水晶球はどこにあるんだろう。」
「たぶん地下室よ。あの部分の魔力が最も高いから。あなた、鍵を持っているんでしょ。早く行きましょう。水晶球を砕けるのはあなただけなの。」
「そ、そうなのか。じゃあ早く行かないと。」
マイルスーンは興奮して、先ほどの夢をほとんど忘れてしまった。
マイルスーンとリースは地下室の前についた。まだ雨の音が響く。相当に激しく降っているのだろう。扉には、たくましい赤い馬が、燃え盛る首のない鳥を食らおうとする彫刻が施してあった。
「あれ、おかしいな。前来たとき、彫刻の馬は骨だけだったのに。」
マイルスーンは振り向いてリースを見た。リースはじっとマイルスーンの瞳を見つめる。そしてやっと口を開いた。
「ええ。中の魔力が高まってきているのよ。水晶球の完成が近いんだわ。あるいはもうできあがっているのかも。」
マイルスーンは扉に目を戻し、緊張して錠の鍵穴に鍵を差し込んだ。動悸が激しい。がちゃがちゃ、と音がして、地下室の扉が開いた。部屋の奥に赤い光が灯った。
「あれよ。」
くぐもった声でリースが告げた。
マイルスーンは部屋に足を踏み入れた。あ、何かにつまずいた。マイルスーンは下を見る。死体だ。息を呑んで部屋を見渡すと、至る所が死体だらけだった。頭をつぶされた女、内臓をえぐられた子ども、老人の首、まだくすぶっていて異臭を放つ「人」、死体だらけだ。舌打ちしてマイルスーンは顔をあげた。ラルスートは、紛れもなく邪悪な死人使いだ。早く、水晶球を砕かなくては。赤い光を目指して、部屋の奥に進む……。
「そんな。これはいったいなんなんだ。」
赤い光を目の前にして、マイルスーンは思わず声をあげた。部屋の奥には水晶球などなかったのだ。ただ、ランプが光っているのに過ぎない。おそらく、扉を開くと点火されるという仕組みになっていたのだろう。
「どういうことだ。」
マイルスーンは振り向いてリースに怒鳴った。リースは、その端正な顔に何の感情も浮かべずに突っ立ていた。マイルスーンが怒って駆け寄ると、リースは突然けたたましく笑いはじめた。マイルスーンがリースの肩をつかむと、その口からけぽけぽと大量の鮮血がこぼれる。目だけで嘲笑って、リースは動かなくなった。呼吸が止まっている。死んだ。
マイルスーンが呆然としていると、扉がぎしぎしと音をたてて閉まり始めた。マイルスーンはあわててリースを投げ捨てる。どさっと音を立ててそれは死体に重なった。見向きもせずに走り込もうとする。が、間に合わない。がん、と最後の音を鳴らして扉は閉まった。部屋には、どうにもならない静寂だけが残った。
……閉じ込められてしまったのだ。必死に扉を叩いていても何にもならない、そう気付いて、マイルスーンはリースに近づいた。もしかしたら、まだ生きているかもしれない。しかし、リースの口からは、なおたらたらと血が流れている。息はもうない。マイルスーンは顔を背けた。疑い余地もなく死んでいる。がっくりと膝をついた。地下室からは出ることができない、リースは死んだ。マイルスーンはすべてを失ったのだ。こんなことなら、師匠を裏切るんじゃなかった、そう痛切に思った。どうせ殺されるのなら、師匠を信じて幸せなままで死にたかった。いや、そもそもここに来るべきではなかった。
それでも周囲の暗い屍は無表情だった。非難の声など上げることはない。リースも同じだ。あの声は二度と聞けない。マイルスーンは孤独に耐え切れなくなって顔を覆った。そして、しくしくとしゃくりをあげて泣きはじめる。
そろそろ涙が枯れて、マイルスーンは虚ろな表情で立ち上がった。またリースの側に行って隣に腰掛ける。もう口からの血の流れは止まっている。マイルスーンはそっとその頬の血を拭った。その顔はまだ美しい。
突然、マイルスーンの視界が霞んだ。まだ涙が残っていたか、と目を擦ったが、とれない。リースの身体が煙をあげていたのだ。マイルスーンは思わずあとずさった。リースの身体が炎をあげた。いやな臭いが部屋に充満し、別の死体も燃えはじめた。目を閉じて口を覆う。地下室が燃えている。部屋はものすごい熱気に包まれていた。マイルスーンは、死体の少ない部屋の中心部に避難した。煙の中で目を開けていられなくなった。目を閉じる。熱すぎる炎が迫ってきている。
「誰か。助けてくれ……。」
聞こるはずのない声で、現れるはずのない救いを求め、マイルスーンは気を失った。
気がつくと、ざあざあと雨が降っていた。雨のせいであろうか、炎はもう消えている。焦げ付いた死体だけが周囲に散乱していた。
「雨……。ここは地下室では……。」
面を上げて、か細い声で独り言を言うと、信じられないことに答えが返ってきた。
「違うわ。」
天空に青い閃光が走り、マイルスーンの目の前に老女が現れた。微かな笑顔を浮かべているが、しかし少しだけ寂しそうだ。
「いったい何が……。」
わけがわからずにマイルスーンは尋ねた。そう、ここは地下室などではなかった。ファタスファの広場だった。西の空だけがぼんやりと黄色く、空は黒い雲に覆われている。壊れてはいるが見慣れた、石の建物。
「わたしにもあなたにも、もう時間がないの。だから手短に言うわ。」
老婆はマイルスーンの側に顔を寄せた。
「はじめから、すべてラルスートの仕組んだ計画だったのよ……。」
憑依の術は、通常、短い時間しか持続しないという。ただし、効力が永続する場合もある。相手が自ら同意した魔法的な誓いを破った時だ。
「リースは魔物だった。あなたが塩水に浸した髪は、魔法のブランデーで変色したあなた自身のもの。だから気付けなかったのね。ラルスートはリースと契約して、あなたが裏切るように仕向けたの。」
「……。」
マイルスーンは何も言葉にできない。すると、老女はそっとマイルスーンの頬に手をやった。
「それはもう過ぎたことよ。取り返しはつかないけど、でも、何も心配はいらないの……。」
マイルスーンが気付いたとき、彼は鉄の寝台の上に横たわっていた。傍らで、ラルスートが、赤い水晶石を箱のようなものから慎重に取り出しているのが見えた。何と、その側にリースも居る。
「胸を切り開いて、そこに新たなる心臓として埋め込むのね。」
楽しそうに尋ねている。
「その通りじゃ。古くなった方の心臓はおまえさんにやる。」
「契約だものね。」
そういうことだったのだ。
「それでも、百年分の魔力は得られるじゃろう。」
「まあね。」
そして、二人は揃ってこちらを見遣った。マイルスーンと視線があう。マイルスーンは、なぜか冷静に、そのまま二人の視線を受け止めた。最初に驚愕したのはラルスートだった。
「どうして意識がある!」
マイルスーンはゆっくりと起き上がった。リースが叫び声をあげる。
「なんで動けるの!」
マイルスーンはむしろ穏やかに微笑んで口を開いた。
「ぼくの命が、そもそも借り物だったんだ……。何で忘れていたんだろう。」
軽く首を振りながら、マイルスーンは動けでないでいる二人に向かって続ける。
「ぼくの家系も魔術師でね。幼い頃、心臓の病に冒されて死にそうになったことがあった。それで、祖父が禁呪に手を出してぼくを救った。全てを犠牲にして。」
ラルスートが真っ青になってつぶやく。
「まさか……。」
「そう。ぼくは形式上、姉に憑依された。姉の意識までは移植されなかったけどね。血の繋がりが必要な儀式だったから、祖父はぼくの命を救う代償として、姉を選んだんだ。」
そして見かけ上、マイルスーンが生き延びた。マイルスーンは笑う。
「言い方をかえれば、ぼくは既に死んでいる。生きているのは、本当は姉の方なのだから。つまりは、ぼくの体は既に憑依されている肉体ということになる。だから、そもそも師匠の謀は無駄だったのです……。」
ラルスートは、がっくりと膝を落とす。
「残念ですね。もう儀式をはじめてしまったから、師匠の体はあと七日も持たないでしょう。その間に新しい生贄を用意するのは不可能だ。」
マイルスーンは、それからリースに目を向けた。
「君の父の話は……。」
リースは何も答えなかった。マイルスーンは、肩をすくめて続ける。
「聞いた通り、望みの魔力は手に入らない。ここに居ても無意味だろう。」
リースは、くっと唇を噛み締めると、すっとその姿を消した。
そして、自分も。ラルスートの儀式のせいで、祖父の術の効力は消えかけている。あと一年持つかどうか。そうなれば、自分も死ぬ。確かに、今ここで死ぬ心配はない。だが、取り返しのつかないことをしてしまった。姉に申し訳ない。
マイルスーンは、嗚咽をあげて泣き出した師匠を置いて、死人使いの家を後にした。
外は快晴だった。白い雲が、上空の風に流されているのが見える。安らかに輝く湖を目にして、まずは、ファタスファに戻ろうと思った。姉の墓参り、いや自分の墓参りか。
カラカラと音をたてて、マイルスーンの前を、一枚の白い葉が転がっていった。
【完】
著作・制作/永施 誠