Stardust Crown
初版:2002-05-25
「薔薇は如何ですか?」
少女は今日も街頭に立ち、声を張り上げていています。
その少女は、ところどころが破れた継ぎ接ぎだらけのシャツとスカートという格好でした。姉に譲ってもらったときには、もう継ぎ接ぎだらけで、それからは直す布地さえ不足するという有様なのです。けれども、少女が手に抱える薔薇の花束はなかなかのものでしょう。すこし鮮烈な赤い薔薇で、初冬に沈みゆく夕日のような美しさを誇っていました。
「薔薇は如何ですか?」
しかし、貧しい人たちは、花の安らぎが必要であっても、まずパンを買わなければなりませんから、冷めた同情の視線を少女に送るばかり。また、豊かな人たちは、豪奢な宝石の輝きにのみ目を奪われ、たとえ少女に目を遣ったとしても哀れみの笑いを浮かべるだけなのでした。
早朝から数時間、まだ一輪も売れていません。今日も薔薇は売れ残りそうです。少女はとても悲しくなりました。自分の生活がかかっていますし、そしてそれよりも、せっかく咲いた薔薇を愛でる人がこんなにも少ないことに堪えられないのです。
そんなとき、一人の紳士が声をかけてきました。深く被った黒い帽子、鼠色のコートをさっそうと着込んだ人です。銀色に光るステッキに左手をかけ、右手で軽く手を挙げて合図しました。
「もらおうかな。」
少女は嬉しくなります。
「ありがとうございます! 一輪で銅貨一枚、花束を作るなら銀貨一枚ですけど……。」
薔薇の花束を紳士によく見えるように掲げながら言いました。紳士は微笑みましたが、しかしその質問には答えず、逆に丁寧に問い掛けます。
「美しい薔薇ですね。やはり、毎日売り切れるのでしょうか?」
少女は、薔薇を褒められて、少しはにかむような笑顔を見せましたが、すぐに寂しげに答えるのです。
「ありがとうございます。でも、そんなに売れないんです。お客さんの手に渡るのは、毎日だいたい半分くらいです。」
紳士は、ちょっと大げさに首と両手を振って悲しんで見せました。
「それは何と嘆かわしい。この薔薇の美しさには、金貨でも費やす価値があろうかというのに。」
少女は言われて、自分の手元の薔薇を改めて見つめてみました。本当に綺麗な薔薇だと思います。紳士は、その様子をにこにこして眺めながら、また口を開きました。
「薔薇はすべて私が買い取りましょう。」
少女はびっくりして顔を上げます。
「全部、ですか……。」
それから、慌てて薔薇を数え始めました。
「ええと、ちょっと待ってください。今、何本あるか数えますので。」
そんな少女を、紳士は笑って遮るのです。
「まあ、百本はないでしょう? ですから、そうですね、金貨十枚で如何ですか?」
少女はまたびっくりして顔を上げました。
「そんなに……。」
「まあまあ、受け取ってください。」
紳士はすっと少女の手に金貨を握らせてくれました。かわりに、少女の抱えていた薔薇の花束を受け取りました。
「え、でも……。」
つい交換には応じた少女ですが、あまりの大金に少女は恐縮してしまいました。何となくうつむいてしまいます。本当にこんなに貰ってもよいのでしょうか。それに、金貨というものを手にもつのは生まれてはじめてのことだったから、少し緊張してしまったのです。
紳士は、そんな少女を見て、軽く笑い声をあげて言い出しました。
「それならば、条件を付けましょう。」
少女は、三度顔を上げます。
「条件? ですか。」
紳士は帽子を被りなおしながら続けます。
「ええ、条件です。私が全ての薔薇を買いましょう。しかし、一人だけで薔薇を愛でても寂しいばかりです。だから、私が受け取る薔薇は、一輪だけにしておきます。」
紳士は、自分の持つ薔薇の束から、一輪をすっと抜いて、目の前にかざすのです。
「というのは、こんなにも美しい薔薇を他の人が知らないのは残念でならないのです。とはいえ、お金に余裕がなくて薔薇を買えないのかもしれないし、それなら責めることはできません。……そこで、私がそういった人に薔薇を送ろうと思うのです。」
紳士は、薔薇の花束にふっと息を吹きかけてから、少女に一輪を抜いた花束を返しました。また薔薇の花束を抱えることになった少女はぽかんとして紳士を見つめるばかりでした。
「あなたのやることは簡単です。代金はもう私が払いましたから、売り口上を述べる必要はないのです。ただ、道行く人に、無償で薔薇を配ればよいのです。薔薇が無くなれば、あなたの仕事は終わりです。余分な代金は、他の人に薔薇を渡してもらう手間賃だと考えて下さい。」
少女はそれでも、ちょっとした罪悪感みたいなものを拭いきれません。
「でも、それでも……。」
紳士はしかし、ステッキを上げて、そのまま歩き出してしまいます。少女は慌てて追いすがろうとしましたが、紳士はぴっと一輪の薔薇を突きつけてくるのです。
「お願いしましたよ。」
それで、少女はほんの少しだけ納得できないような気持ちを抱きながらも、道行く人に薔薇を配ることにしました。
「薔薇をどうぞ。」
少女は道行く人に薔薇を差し出しました。はじめの何人かは、押し売りとでも勘違いしたのか、邪険に少女の手を払いのけたので、少し悲しい思いもしました。しかしすぐに、人々は薔薇が無料であることに気付きました。
「お金はいらないのかい?」
いつも買ってくれていたお婆さんなんかは、わざわざ念を押しました。
「はい。もう受け取りましたから。」
少女は答えて薔薇を渡しました。そうして少女の方から薔薇を渡そうと声をかけていたのですが、すぐに少女の前に列ができるようになりました。
「俺にも一輪頼む。」
いつもは薔薇を買わないような男の人も来ました。少女が薔薇を渡すと、聞いてもいないことを恥かしそうに答えます。
「いや、家内と子どものために貰おうと思ってね。」
最初こそ戸惑っていた少女ですが、次第に嬉しくなりました。もちろん、お金を受け取らないからこそ、こんなに人気があるというのはわかっていましたが、自分の好きな何かを、他の人が気に入ってくれるなんて、何と素晴らしいことでしょうか。
「薔薇をどうぞ。」
少女の声は段段と弾んできました。こうして、すぐに薔薇はなくなってしまいました。少女は、列で待っていた残りの人たちに謝ります。
「ごめんなさい、もう売り切れてしまったんです……。」
薔薇をもらえなかった人は、ちょっと不満の声をあげて、残念そうに散っていきました。中には、少女に声をかけていく人もいます。
「どうしたんだい? ただなんて。」
いつも薔薇を買いにきてくれる、お金持ちの家の使用人のお姉さんです。
「えっと……。」
少女はこれまでの経緯を説明しました。
「へー、それじゃあ、あたしも、もっと早く来るべきだったかな。」
お姉さんは声をたてて笑いました。よかったね、とその顔が言っていました。
「すみませんでした。」
少女は謝って、それから家路に付きました。今日は金貨を握りしめているのです。自然と、足取りは軽くなります。
「薔薇は如何ですか?」
少女は今日も薔薇を売ります。昨日あれだけいいことがありましたから、自然と声も元気になります。
「もらおうかな。」
と、また昨日の声がかかりました。見ると、何時の間にか灰色のコートを来た紳士がそこに立っていました。
「え、えと、いかほどをお求めですか? 一輪で銅貨一枚、花束を作るなら……。」
少女が戸惑いながらも一応説明をはじめると、紳士は笑って遮りました。
「今日も全部買うよ。」
そして、ポケットから金貨を取り出しました。少女の手に金貨を握らせ、花束を受け取ります。すうっと薔薇の香りを楽しんでから、ふっと薔薇に息を吹きかけます。
「いい匂いだね。魂を感じるね。」
紳士は笑って、一輪だけ薔薇を抜き取ると、残りを少女に返します。少女は、本当にこんなことが続いていいのだろうか、と夢を見るような気持ちになりながらも、やっぱりうれしくなって確認します。
「街の人たちにあげていいんですね?」
「ああ。また、昨日のように頼むよ。」
そうして、紳士はステッキを上げてどこかへと帰っていくのです。
「薔薇をどうぞ。」
少女は昨日と同じように薔薇を配り始めました。もう、無償で配った話はみんなに知れ渡っていたようで、今回は、邪険に振り払われたりすることはありませんでした。すぐに行列ができて、薔薇は昨日よりも早く売り切れたのです。
「ありがとう、今日はちゃんともらえたよ。」
幸いにも、昨日貰い損ねたお姉さんも薔薇を手にできました。少女は、金貨を握りしめて、うきうきと家路に着きました。
少女が家に帰ったのが、また昼前でしたから、お母さんは驚きました。
「今日も早く帰ってきたんだね。」
少女はにこにこしてお母さんに金貨を渡します。
「うん、また例の旦那様が来てくれたんだよ。町のみんなも喜んでくれたよ。」
すると、まだ幼い弟と妹たちがわらわらと集まってきたので、少女は、今日のことも話して聞かせました。
「よかったねぇ。今晩も、きちんとしたご飯が食べられそうだよ。お父さんの借金もだいぶ返せそうだし、本当にその旦那さまはよい御方だね。」
お母さんも嬉しそうです。
「お父さんの借金が返せるの?」
少女の一つ下の、ちょっとませた弟が尋ねます。実は、少女たちのお父さんは、働きものではあるのですが、賭け事やお酒が大好きで、それで少しですが借金を作ってしまっているのです。この弟はそんな事情をよく知っているのです。
「こら。子どもがそんな事に口を出すものじゃないわ。」
お母さんが諭しますが、それでもその口調は優しいものでした。少女がお母さんを手伝おうと台所に向かうと、お母さんが一組の服をもって付いて来ました。
「それは?」
少女は何気なく尋ねました。だいぶ綺麗な服です。お金がたくさん稼げたので、新しい服を買う余裕ができたのでしょうか。
「お前に、って思ってね。」
お母さんはにっこりと笑います。
その晩は、お母さんと一緒に作った夕食をみんなで食べました。残念ながら、お父さんだけはいませんでしたが、それでも楽しい団欒でした。ベッドに入って、お母さんにお休みのキスをしてもらって、しばらくすると、お父さんが帰ってきたようです。
「ただいま。」
そんな囁くような声と共に、物音がしたからです。お母さんが何か答えるのが聞こえて、それから、お父さんの気配がしました。
「今日もがんばってくれたんだってね。すまないね。」
お父さんの肌を、一瞬だけおでこに感じました。少女は、ぱっと起き上がって話したくなる気持ちを抑えて、安からに眠っているふりをしました。
「おやすみ……。」
お父さんの声がもう一度して、少女はやっと本当に夢の世界に入りました。
「薔薇をどうぞ。」
少女は小奇麗な服装で行列に並ぶ人たちに薔薇を手渡していきます。紳士が毎日のように来てくれているのです。だから、少女は毎日のように金貨を受け取り、それから薔薇を配ることができるのでした。
ところで、紳士が一度買い上げて、それから少女が配る薔薇というのは、不思議な力を持っていました。花瓶に差している限り、決して枯れることも、萎むことも、また色褪せることもないのです。また、一輪の薔薇が一晩のうちに二輪に、また次の日は三輪に……というように、自然に増えていくのです。
「あの子からもらった薔薇には不思議な力がある。」
人々は噂しました。誰もが、一度は少女のもとへと薔薇を受け取りにいきました。少女の配る薔薇は日増しに美しさを増していきました。すぐに、ルビーのような輝きを放つようになるといいます。
「あの子からもらった薔薇はとても美しいね。」
人々は賞賛しました。そして、街中に薔薇が満ち溢れ、人々の間に安らかな笑顔が広まるようになりました。
「ただいま。」
少女は今日も昼前に家に帰ります。紳士からもらった金貨を握り締めて。
「お帰り。今日も例の旦那様は来てくれたんだね?」
家では、お母さんが待ち構えていました。兄弟たちもみんな揃っています。
「さあ、早く家に入りなさい……。」
今日は、何とお父さんもいました。いつもは夜遅くにしか帰ってこないので、ほとんど顔を合わせることはないのですが、どういうわけか少女よりも早く家に戻っているようです。
「お父さん! ただいま。」
少女はうれしくなります。そして、紳士にもらった金貨をテーブルに置きました。
「いつもの旦那様が、今日も来てくれたんだよ。」
お父さんは、にこりと微笑みました。
「そうか、ちょっとお父さんから話があるんだけどね……。」
その前の晩のことです。家に戻ろうとしたお父さんは、一人の紳士と出会いました。銀色に光るステッキに左手をかけて、深く被った黒い帽子を被っています。鼠色のコートをさっそうと着込み、その右手には一輪の鮮やかな薔薇の花を挙げていました。その紳士が、お父さんを呼び止めたのです。
「今晩は。」
お父さんは、相手の裕福そうな身なりを見て、緊張して答えます。
「今晩は、旦那様。わたしに何か御用でしょうか。」
相手の紳士は、すうっと近寄って来て言いました。
「あの家に入ろうとしたんですか?」
紳士は、少女とお父さんの家を指差します。
「へ、へえ。そうですが?」
紳士は、とても優しく微笑んで続けました。
「やっぱりそうでしたか。で、お宅には、薔薇を売っていらっしゃるお嬢さんがおられるとか?」
紳士は、薔薇をお父さんの鼻先まで持ってきました。お父さんはそれで初めて薔薇に気付き、ちょっと得意になって答えます。
「ええ、うちの娘なんです。」
「何でも、お嬢さんの売る薔薇には不思議な力があるとか……。」
紳士は薔薇を自分の胸ポケットに納めてから、帽子をくっと沈めながら尋ねてきます。
「どうもそんな話ですがね。本当のところはよくわからないのですよ。」
紳士はさらにお父さんに近寄って囁きました。
「お宅の薔薇は、枯れることもなく、自然に増えていくそうですね。そして、普通の薔薇よりもずっと美しくなるとか。」
お父さんが何も答えないうちに紳士は続けます。
「素晴らしい! 国王陛下の庭園にさえ、そんな薔薇は咲くことがないでしょうに。」
「そ、そうですかね。実は宮殿どころか、都にさえいったことがありませんので。」
紳士はさらに続けます。
「で、どのくらいの売上なんでしょうか。世界に類を見ないような薔薇ですから、一輪あたり金貨十枚では効かないのでしょうね。」
お父さんはびっくりして答えます。
「そんな! 花束一つで金貨十枚です。それに不思議な力というのは別に娘のせいじゃないようなのです。とある旦那様にお買い上げいただいてからですよ、そういう魔法みたいなことが起きたのは。」
紳士は、じっとお父さんの顔を見つめました。
「ほう。その紳士は毎日来るのですか? ちなみに、国王陛下の薔薇は、一輪で金貨数十枚以上はしますよ。」
お父さんが、何となくごくりと唾を飲み込むと、紳士は胸ポケットからまた薔薇を摘み出しました。
「それに、この薔薇はずっと美しい……。」
「薔薇は如何ですか?」
今朝の少女は家族といっしょに街頭に立っています。フリルのリボンで飾られた、とても可愛い服に身を包んで。
お父さんが、国中を薔薇で満たせるように、これからは一家で薔薇を売ろう、と言い出したのです。今までの借金は全て返して、かわりにきちんとした銀行でお金を借りて、大きな薔薇園を買い取って、十倍以上の仕入れを行ったというのです。だから、家族全員が花束を抱えても、まだまだたくさんの薔薇が余っています。
「こら、まだにしなさい。」
声をあげた少女に対して、お母さんが言いました。そうです、今朝はまだ、あの紳士が来ていないのです。あの紳士にもらってもらわないと、薔薇には不思議な力が宿ることはない、お母さんとお父さんにはわかっていたのです。
「う、うん……。」
少女は俯いて、自分の薔薇を眺めました。本当に、冬の丘の向こうに沈んでいく夕日の雫で育てたような綺麗な薔薇だと思います。
「お姉ちゃん、ほら!」
弟が少女の袖を引きました。誇らしげに指差す向こうには、街のレストランがあります。レストランのどのテーブルにも、火の鳥のように輝く薔薇をいっぱいに差した花瓶が並べられていました。少女からもらった薔薇でしょう。そして、遠目なのにも関わらず、いま少女の眺めている薔薇よりも、ずっと美しい光を放っているようです。
「う……うん。」
しかし、少女は少し悲しくなりました。というのは、最初に配ったときは、誰もが薔薇の美しさに見とれ、時折、花を撫でてはその香りを楽しんでいたのです。それなのに今では、薔薇に目を向ける人など、ほとんどいないのです。街中に薔薇が満ち溢れているのですから、わざわざ立ち止まるような人がいないのは当然なのかもしれません。
そして、どうしてしまったのでしょう。街中を行く人々の表情は。少女には、なぜか、薔薇の赤い光に照らし出されて、ぎらぎらとしているように見えました。一時の安らいだ雰囲気はどこにいってしまったのでしょう。これでは、あの旦那様に出会う前と同じではありませんか。いや、こんなにも綺麗な薔薇に囲まれているのに、それを考えると、もっと悲しいことのように思えてなりません。
「そろそろか?」
お父さんが、待ち侘びたように話し掛けてきました。お父さんも、薔薇には目をくれず、辺りをきょろきょろと見渡すばかりなのです。
少女は、お父さんにちらりと視線を送り、それから、また自分の薔薇に顔を向けました。そして、
「薔薇は如何ですか?」
誰にも聞こえないような声で、そっと呟くのでした。
【完】
著作・制作/永施 誠