Stardust Crown
環境問題を真剣に考えていくと、人間がまだまだ本気になっていないこと、環境問題が人間を本気にさせない構造をもっていることに気づく。ここから、これまで主流であったような、問題解決のための技術的アプローチの限界、そしてそれを修正すべき理由が見えてくる。
我々が環境問題を論じるとき、人間の善性を信じがちである。つまり「多くの人が環境問題を解決したいと考えているのに、なぜ解決しないのか? やはり技術が不足しているのではないか。」として、革新的な技術、例えば、より低コストのリサイクル方法、より二酸化炭素排気の少ないエンジン、より汚染の心配のない化学物質……そういったものを期待したくなる。
だが、本当にそれで環境問題は解決に向かうのだろうか? あるいは、解決の道筋が見えてきたのだろうか? そして何よりも、この期待は環境問題が真の脅威を見せる前に、実を結ぶのだろうか?
ここでは、そういった従来の「技術の発展に環境問題への対処を担わせようとする考え方」を“旧来デザインの発想”と呼び、それに対して“モチベーション・デザインの発想”を提唱してみたい。(今回は特にその切り替えの必要性について述べる。)
さて、やや唐突に“デザイン”という言葉を使用したのでそれについて触れておく。ふつう“デザイン”は“設計”と訳され、設計要求(ユーザーの欲求)を機能として実現する(モノの技術に結びつける)ことを使命としてきた。ここでいうユーザーの欲求とは、一般に人間の欲求に他ならず、デザインはそれに応えるべく産業技術を発達させてきたわけである。現代の産業文明は、人間の欲求を科学のデザイン(つまり科学を発達させてきた人間のデザイン)が実現させることで形成されたといえよう。
周知の通り、環境問題とは産業文明の副作用であるから、デザインの問題を見つめ直すことの意義は理解してもらえると思う。
まずここで、従来の環境問題対策の方針を振り返ってみる。これは、先に述べたように、環境問題を解決できるよう、モノの技術を向上させていくという考え方であった。デザインを構成する要素(欲求と技術)のうち、モノの“技術”を志向していたのである。これはこれまでのデザインに任されてきた領域を勘案すると当然なのだが、ここで一つ問うてみたい。それはデザインの原点たる、ユーザーの“欲求”への問いかけである。
「ユーザーは−人間は環境問題を本気で解決したいのか?」
環境問題は、多数の人間の活動を原因として生まれた問題だ。つまり、多数の人間が活動を変更しない限り、解決はありえない。
だが一方で、公害と異なり身近な問題になりにくい面がある。
大気汚染があれば咳をするだろうし、水質汚濁があれば水がまずくなるし、土壌汚染によって作物は育たなくなる。これらは実感できる脅威であり、だからこそ、公害問題が顕在化したとき、多くの勇気ある住民が立ち上がり、社会を突き動かしたのであろう。また汚染物質は − 有機水銀などでは認めさせるまで厳しい闘いがあったことを承知の上でいうが − 確実に存在し、因果関係の立証も可能である。(それが容易であるとはいえないまでも。)なぜなら、今そこで人々が苦しんでいるのだから。
しかし、二酸化炭素の増加が本当に温暖化に繋がると叫ばれたとき、今ここで危機に陥っている人がいるだろうか? 地球の南端の氷が崩壊したとして、その轟きが直ちに日本人の脅威になるわけではなく、沈みゆくとされる諸島の人々は国境の、水平線の遙か彼方に住む。つまり、我々は現実に危機に陥っている人々を直に確認できないところに住む。だから、エコ活動に取り組んでも、そして取り組まなくても、それは実感に繋がりにくいといえる。
ところで『囚人のジレンマ』という話を御存知だろうか? 簡単にいえば、個々の利益を優先させる行動を選択した結果、全体の利益が損なわれる場合がある、という教訓を示す話だ。環境保護活動は、まさに囚人のジレンマといえるのではないか。
環境保護活動を例に説明してみよう。人類全体の利益を考えれば、世界の多数が真剣に環境問題に取り組むのがよい。ところが、個人の利益を考えると、環境問題を気にせず好きにやる方がよいのである。それはそうだろう。環境対策にはコストがかかるのだし、行動の制約を生むのだから。好きなだけエネルギーを浪費し、好きなだけ物質を消費した方が楽しく暮らせる。少なくとも、もし環境問題を生む可能性が全くないとすれば、間違いなく人類の大多数がそちらの道を歩むと理解できれば、これは当然のことと承知できよう。
さて、環境問題は多数の人間の活動が原因だから、一人だけの贅沢には左右されないし、また一人だけで環境保護に取り組んでも無意味ということがある。ということは、もし全体が環境問題に真剣に取り組んでくれていれば、自分だけ贅沢しても問題ないわけだし、また、全体が不真面目ならば、自分だけ真剣にやるのは無駄で損なこと、ということになる。
したがって、いずれにせよ、環境問題は放っておくのが得である。逆に言えば、真面目に環境保護に取り組むと損する。
……もし、個人が自分の利得を最大化しようと行動すれば、上記のような結論に達するだろう。
さて、このような空間的な問題の他に、時間的な問題というものがある。環境問題は、過去や現在に原因をもち、現在や未来に影響を及ぼす、世代を越えた問題なのだ。利害関係者は現在から未来に渡るわけだが、もちろん、行動の選択は常に現在側に委ねられている。
ところで、現代の産業文明は市場経済システムに支えられているといってよい。我々は、市場を通して供給されるサービスを購入し、それで供与されるサービスに対価を支払う。こうして、地球が回っているのである。すなわち、現在の価値観の基盤は“損得”勘定の上に置かれている。
ここで、市場には競争原理が働いていて、我々は、より低コストの、より高サービスを選択する。ただし、ここでいうコストは現在の人間が支払う部分を指すし、サービスは現在の人間が受け取る部分を指す。これは、一見高尚な民主主義も同じである。選挙権は、現在において成年市民である人々にのみ与えられる。どちらにしても、選択権は常に現在の人間が握るわけである。
だが、現在の人々にとって、環境問題の解決は絶対に必要なのだろうか? 残念ながらそれは違う。もし現在の人々に危機感をもたらす問題があれば、それは環境問題よりも高い優先順位を与えられるだろう。これは、よく言われる台詞『いま飢え死にしてしまえば、明日どうなろうと関係ない。』に集約されていよう。したがって、環境保護というサービスに理解が得られず、しかもコストの不利益が重視されると、エコ製品は忌避されることになる。ほとんどの人は、現在の生活に支障が出るくらい熱心には、環境問題には取り組まないだろう、という話である。
さらに“潜在的な爆弾”についてもふれておこう。環境問題は国際的なものだから、先進国だけで対応しても不十分なのだ。(今のところ原因のほとんどが先進国の活動にあるとしても。)先ほど述べたように、環境問題は多数の人間の活動が原因だから、その本質に人口問題を挙げることができる。承知のように、地球人口に占める割合は発展途上国の方が圧倒的に大きい。空間・時間にまたがる歪みは、地球の“南北”にも存在するのである。
先進国の公害問題の歴史を振り返ればわかるだろうが、大抵の場合、環境保護に目が向くのはある程度の豊かさを得てからである。(これは先ほどの現在の生活を重視するという話にも関連する。)では、環境問題の時間的余裕はどのくらい残されているのだろうか? 世界中の人が豊かになってから、で本当に間に合うのだろうか?
しかしながら、少なくとも私は、豊かな生活を享受する先進国の人間として、豊かになる前の対策を途上国が受け入れてくれるとは、はじめから期待するつもりはない。なぜなら、自分たちも豊かさを捨てての環境対策を取りたいとは思わないからである。(これも一種の囚人のジレンマであろう。)発展途上国が産業の制限を受け入れることはないだろう。今のままでは。
やたら悲観的な事項を書き連ねてきたが、ここでもう一度、現在のデザインの問題点を振り返ってみたい。それは「環境問題の解決は設計要求か?」ということにつきる。市場経済システムにおいて、そして民主主義においても、(多数の人に)望まれていないモノは受け入れられない。少なくとも採算が取れなければ継続せず、生き残れない。
各種サービスに環境対策を織り込んでも、それで消費者の目に見える効果が現れるわけではない。果たして、ユーザーは実感できないサービスに対価を支払ってくれるのだろうか?
従来の、個々のモノの技術を何とかしようというのは、各論的な対処であり、根元的な問題に光が見えない限り、本格的に機能する期待は薄い。人々は総論賛成・各論反対的立場にあるのだ。
つまり、二十一世紀からのデザインは、ユーザーの欲求自体を対象にしなければならないと思うのである。それは、新しい価値観を創造するということであり、例えば、新しい経済スタイルを創り出すことであり、環境問題の深刻さを実感できるよう努力することである。
抽象的には、“環境負荷が小さくなる”のではなく、“根本的に環境負荷がなくそうとする”のが理想だ。もう少しだけ具体的にいえば、生活スタイル自体を変革していくデザインとなる。
他にかろうじて現実的と思われる方策は、社会システムの源流に切り込む政治からのアプローチであろう。つまり、法規制によって環境対策の要求を強制しようというもので、環境対策を経済原理に組み込む考え方である。(なお、昨今問題になっているグローバリゼーションの長所として、成功例は急速に世界に広まるというのがあろう。)
しかしながら、どうやってこうした政治の代表を送り出すのか? 結局のところ、この点に関しては人間の善性を信じるしかない。現代の政治システムは間接民主主義であるゆえ、個々の市民が各論反対であっても総論賛成であらば、環境保護についてリーダーシップを発揮できる政治家に信託を与えることで、問題の解決に近づけるかもしれない。
もう一つ、近年の著しい「情報」の在り方の変化が挙げられるかもしれない。国境の彼方の人々の口と耳がより身近になることで何かが変わる可能性はある。
環境問題の難しさの根元は、それが空間的・時間的・国際的に広い範囲にまたがるところにある。したがって、個人として活動する人間は、“囚人のジレンマ”的状況にあり、問題の解決に反する要求をもつことが考えられる。しかし、これまでの機能実現型のデザインは、人間の欲求自体には本質的な変更を迫らなかったことがあり、環境問題を真に解決に導けるか疑問である。
我々は自分たちが囚人のジレンマ的状況にあることを自覚し、自らの価値観を見直し、システム自体に関与していくべきなのだ。−例えば、政治において環境に真剣に取り組む候補を志向する。−
……あるいは、以上が問題にならないくらいの革新的な“夢の”技術を待つ方法もあるだろうが、それは本当に期待できるのか確実ではない。実のところ、少なくともこれについては、私はどちらかというと悲観的な意見を抱いている。
著作・制作/永施 誠