ファタスファの炎−前編

  1. 前編

初版:1996. 10/23
第二版:2002-11-23

目次(前編)

  1. 戦火に焼けた街
    1. 廃墟の青年
    2. 青い髪の少女の夢
  2. 死人使いの弟子
    1. 弟子の心得
    2. 弟子の生活
  3. 死人使いの留守
    1. 師匠の遠出
    2. 赤い髪の女の夢
    3. 赤い髪の女との出会い
    4. 赤い髪の女との約束

戦火に焼けた街

廃墟の青年

 カラカラと乾いた音を立てて、一枚の白くなった葉がどこかに飛んでいった。

 赤く輝いていたはずの頭上の雲は、いつのまにか、ほとんどが黒に染まっていた。東の空の雲だけが、鈍い黄色の光を放って、路上の死体を照らしている。ここはルフィア湖周辺の小さな都市の一つ、ファタスファである。クロープトリー軍の襲撃を受けて壊滅した。彼らは住民を皆殺しにして、太陽とともに西の彼方に沈んだ。ゆえにこの街には人がいないのだった。
 例外が一人いる。広場の青年は、倒れているがまだ生きていた。左手に握られている「札」、これがこの青年を救ったのである。この札には、握っている人が動かなければ、それを死体に見せかけるという魔力があるらしい。そうたいした力ではないが、祖父の代までは魔術師の家系の、この青年の家に残された唯一の「魔法の道具」だったのだ。もう青年しかいないその家系の血を絶やしたくなかったのであろうか、この「札」は立派に役目を果たし、こうして青年の命を救ってくれた。
 しかし、青年は緊張していた。足音がするのである。喉が渇いたし、腹も減ったから、そろそろ食べ物を探したいのだが、もしクロープトリーの連中であったとしたら大変である。だから青年は様子をうかがっていた。すでに暗かったが、しかし、青年の家系から来る魔力の瞳が周囲の様子を捕らえた。頭をつぶされた女、内臓をえぐられた子ども、老人の首、まだくすぶっていて異臭を放つ「人」。幾百もの死体がごろごろと転がっている。石の建物は壊れかけていてところどころに赤い染みがある。暗闇の中でも、青年はそうした殺された街の様子が良く分かった。クロープトリー軍の行為が再び脳裏に浮かんできた。
 込み上げる吐き気と涙をこらえながらも、近づいてくる人影を見つめる。あまり背は高くなく、ローブを着ているらしい。死体の懐を探ったりはしていないから泥棒のたぐいではあるまい。そもそも装身具はすでにほとんどクロープトリーに奪われたあとだ。ここには本当に死体しかないのである。いったい何の用なのだろう。
 ローブを着たその人間は、青年を見つけると近づいてきた。どうやら老人のようである。白いあごひげを伸ばしているのだ。彼は、青年の正面で立ち止まった。何者かはわからないが、とにかく恐ろしい。こんなところを平然と歩いているからには只者ではあるまい。軍の関係者か、自分に気付いたのか。そう緊張し、自分の心臓の動悸が聞こえるのではないかと、冷や汗をにじませた。青年は心を静め、じっと動かずに左手の「札」をしっかりと握った。そして、早く去れと念じる。
 老人はなぜか微笑むとなにやら口ずさみ始めた。意味はわからなかったが、青年はその血筋のせいか呪文であるらしいとだけわかった。異様な抑揚のついた凶々しい呪文である。
「むすふ・ぱふさだでぃす……るちゅふ・いくうぇんねふ・ぐどぅあ……るとぅぐふぃあ・ふゅひだむん・なれし……りいあででぃ・げいでぃく……ぎゅふぃなめす・たがのしもぉてみ・いさちみ……」
 長い長い詠唱が終わると、ぼんやりとした赤い光が広がり始めた。ぼうっと照らし出しているだけの弱い光がだんだん強くなっていく。閃光のように赤い光が強くなり、青年は思わず目を閉じた。世界が赤だけになったようだ。
 目を閉じていても顔をしかめたくなるような眩しさが消えると、ぞっとすることに、隣で何かが立ち上がった気配を感じた。そこには死体が横たわっているだけのはずだが。青年は驚いて目を開き、思わず上体を起こす。先ほどまで死んでいた男や女が、両手をだらんと垂らしてたたずんでいた。ローブの老人は青年を凝視している。
「何者だ。」
 青年はか細く叫んだ。膝ががくがくと震えている。老人は、一瞬驚きの表情を浮かべたが、すぐに満面の笑みをたたえた。
「なるほど、そうじゃったのか。わしの術が効かなんだのはそのためであったか。おぬしが屍であったら元気に歩き始めたじゃろうに。おぬしが生きておったから動かなんだのか。ふぁ、ふぁ、ふぁ。そうか、そうじゃったのか……。」
 老人はもう一度笑った。それから急に凍り付くような視線で青年を見つめた。青年は、相手の正体を悟った。「死人使い」である。呪われた魔術をもって屍に偽の魂を吹き込み、それを自在に操るという、人々に嫌われがちな魔術師の中でも最も忌み嫌われる存在だ。そもそも青年の家で魔術が絶えたのは、また、祖父が処刑されたのは、祖父が「死人使い」の術に、手を出したからだ。幼かったからもう覚えていないが、両親からだったか、そういう話を何度か聞いた記憶もある。

 青年が、首を吊られた祖父のぞっとするような「笑い」を思い出しているうちに、老人がゆっくりと口を開いた。
「若いの。どうじゃ、わしと取引をせんか。どうやらおぬしには行く当てもない様子。ここまま放って置いても良いのじゃが、おぬしには素質があるようなのでな。もし、おぬしがいかなる場合にもわしを裏切らぬ、と誓えるのなら、弟子にしてやろう。少なくとも、食う物や寝る場所に困るようなことにはせぬ。」
 老人は少し口を休め、舌を伸ばして唇を湿らすと、また続けた。
「確かにそう楽な身分ではないがな。まあこのままここに留まるよりはましじゃろう。もしかしたら、いつの日か死人となって、そう、腐るまで誰かに仕えることにならんとも限らん。どうじゃ、この話に乗る気はないか。」
 老人は口を閉ざしてまた青年をじっと見つめた。青年は黙って老人を見返した。それからゆっくりと、老人の周りの一度は死んだ「人間」に目をやった。
 彼らは疲れきったようにうつむいて、その瞳だけを真紅に燃え上がらせている。その表情は楽しそうでも、怒っているようでもない。何の感情も読み取れなかったが、見る者は「虚しさ」を覚えずにはいられない。青年はまだ、彼らが殺されたときの表情を覚えていた。怒り・悲しみ・苦しみ・祈り……、ただ剣が振り上げられて、そしておろされるその瞬間に、様々な感情が交叉していた。青年は二つの瞳から涙を流した。そして口を開いた。
「承知した。」
 老人は、またあの微笑みをたたえて答えた。
「そうか、そうか。わしも乗ってくれるものと信じていたよ。そう、そう。わしの名はな、ラルスートというのじゃ。おぬしの名はなんじゃ。」
「マイルスーン。」
「ふむ。マイルスーンか。では、マイルスーン。いかなる場合にもわしを裏切らぬ、と誓うのじゃな。汝の命にかけて誓うのじゃな」
「誓う。」
 青年、マイルスーンは短く答えた。まあ、もともとは自分も魔術の道を歩むことになっていたかもしれない。今、魔法使いの道を選ぶのは悪くはないように思える。
 ラルスートはすっと目を細めてマイルスーンの瞳を見つめた。
「ではマイルスーンよ。わしの目を見ろ。マイルスーン、マイルスーン……。」
 マイルスーンはラルスートの目を見た。ラルスートの瞳がかっと開かれた。それは、爛々と真紅の炎をたたえている。立ち上がった死者が映っていた。今朝焼き殺されたばかりの、「人間」たちだ。死者は燃えていた。町中の燃え盛る屍が起き上がり、ラルスートの側によってくる。後ろの建物も燃えている。ラルスートの瞳の中で。瞳の中にマイルスーンもいた。炎が広がってマイルスーンも包んでいる。自分もやはり燃えている。
 マイルスーンは静かにそれを眺めていた。自分を包む炎。街の建物が消えて、火は空を焦がし始める。身体を包む冷たい火。着物と「札」を焦がして肉体をゆっくりと焼いていた。その臭い、朝にも嗅いだ、その臭いの中でマイルスーンも燃えていく……。

青い髪の少女の夢

 マイルスーンは炎に包まれている。ファタスファの赤い世界で。空には赤い満月。雲がゆれている。クロープトリー軍。地面を踏みしめる軍馬。子どもの泣き声。泣き声が響く、軍馬の蹄の音が響く。地面が割れ、裂け目から水が出てきた。青い水だ。火を消す。煙のむこうに首吊り台が姿を現した。祖父が首を吊られている。笑いながら死んでいた。青い血をぽたぽたと垂らしている。女の子がいた。青い髪の女の子。悲しそうな女の子。
「君は誰。」
「マイルスーン、忘れちゃったの。わたしよ。」
 青い髪の女の子……。マイルスーンが目を凝らして見る。よく見ると、女の子の胸が裂かれていた。あばら骨が切り取られ、空洞になった中から青い血が流れ出ている。
「時間がないの。もうすぐ死んじゃうから。思い出して、マイルスーン。」
 青い髪に青い瞳、小柄な身体、静かな口調。いつも側にいた人……。
「姉さん、姉さんなの。」
 彼女はマイルスーンの姉であった。彼女は祖父の実験台になって死んだ。
「そうよ。思い出してくれたのね、わたしのマイルスーン。」
 それから、少女は突然、またしゃべりだした。しかし、よく聞き取れない。
「時間…ない……一度しか言……いわ。いい、…く……てね。……は………人ではないの。生き……いないから。おじいちゃん……同じ。死んでいるのよ。だから……あるの。魔力が生きる……を妨げているの。それが…の人の心臓になって……」
「何。よく聞こえない。何を言いたいの。」
 こぽこぽと音をたてて青い血が一度に流れた。地面から炎が吹き出して青い女の子を焼いた。赤い炎に焼かれながら、ネイフェルはさびしそうに微笑んだ。
「さようなら、マイルスーン。今回はこれまでみたい。さようなら、マイルスーン……。」

死人使いの弟子

弟子の心得

「……マイルスーン、マイルスーン。」
 誰かが自分を呼んでいる。
「マイルスーンよ。わしがわかるか。」
 マイルスーンは、はっと目を覚ました。ベッドに横になっている。上から老人が覗き込んでいる。ラルスートだ。いつのまにか部屋にいる。この人の屋敷だろうか。
「気付いたか。三日も寝込んでおった。まあ、無理もない。一日中緊張して横になっていたのだからな。おぬしは少し疲れすぎていたのであろう。」
 ラルスートは湯気をあげている鉢を黙って差し出した。あれは夢だったのか、マイルスーンは無意識にそれを受け取り、さじをとった。
「あまり急いで食べないようにな。」
 夢、何の夢だったのだろう。さじを口に運ぶ。ラルスートはしばらく黙って、粥をすする弟子を見つめていた。しばらくすると、またマイルスーンに話し掛ける。
「魔術の修行は明日からにするか。今日はわしの家を案内してやるとしよう。」
 マイルスーンはあわてて顔をあげうなずくと、また下を向いた。食事を再開する。ラルスートは微笑みながらその様子を眺めていた。そして静かに部屋から立ち去った。
 食後。マイルスーンは部屋を眺めていた。木造で、特に装飾品はない。壁に髑髏の絵が掛けてあるだけだ。家具も、横になっているベッドぐらいで、他にはなかった。窓があって外の森が見える。ベッドから降りて窓に近づいた。はめ殺しの窓である。マイルスーン家にもあったが、一般市民では「ガラス」は買えない。なかなか裕福なのかもしれない。外の森の植物は、なじみのあるルフィア湖のものに似ているような気がする。故郷だった街に近いのだろうか。
「死人使いか。」
 マイルスーンはつぶやいてみた。以前、祖父と話したことがあった。
「マイルスーン。死人使いは悪魔ではない。人は死ねばそれで終わりなのだ。人の死後に残るのは、肉の塊でしかない。死体には、何も残らないよ。だから、それをどうしたって何も起きない。死人使いは悪魔なんかではないよ……。」
 しかし、そうではなかった。「死人使い」が扱うのは死体ばかりではないのだ。それで祖父は殺されることになったマイルスーンの父が故郷を救った英雄でなければ、また、父が自ら祖父を捕らえていなければ、一家が皆殺しにされていたかもしれない。祖父の実験台となって死んだ人、あの人は……。誰だったか。
「マイルスーン。入るぞ。」
 ぎしぎしと音をたてるドアを開け、ラルスートが入ってきた。思考を中断して振り向く。マイルスーンは、まだラルスートが恐かった。
「外を見ていたのか。」
「え、ええ。あ、こ、この森の植物はわたしになじみがありますね。」
「ああ。ここはルフィア湖の南西じゃ。南のファタスファに近いだろうて。ところで具合はよくなったかね。我が家を案内してやろう。」
「あ、はい。」
 マイルスーンはラルスートにしたがって部屋を出た。装飾が少なく、ところどころに窓がある他は、簡素な造りの屋敷である。分厚い本がぎっしりと並ぶ重厚な書斎や、ガラスの容器や薬品が乱雑に散らばる実験室、普通の家庭と変わらない台所など、マイルスーンの寝ていた寝室を含め、八つの部屋を巡った。
 最後に、二人は実験室の床をあけて隠された階段を降りた。ラルスートの持つランプが、ゆらゆらと地下を照らす。階段を降りると、そこに扉があった。地下室があるのだろう。まだ昼のはずなのに、そこは肌を刺すように冷たかった。吐く息が白い。ぞっとするような寒さの中で、ラルスートが言った。
「マイルスーン。」
 そして扉を見つめる。扉には、骨だけの馬が、燃え盛る首のない鳥を食らおうとする彫刻が施されていた。赤一色で塗られていて、鍵が掛けられている。ラルスートはマイルスーンと共にしばらく見つめると続けた。
「マイルスーン、この部屋だけには入ってはならぬ。いいか、どんなことがあっても、決して入ってはならぬぞ。」
 マイルスーンの目に言う。マイルスーンはごくりと唾を飲み込み、黙ってうなずいた。ラルスートはそれを確かめると、階段を上り始めた。マイルスーンも続く。どちらも口を開かず、カツ、カツ、という足音だけが響いた。実験室に戻ったところで、マイルスーンはラルスートを手伝って床を元のように直した。肌に食い込むような寒さが去る。
「いいな。地下室にだけは入るのではないぞ。わかったな。」
 ラルスートが念をおした。マイルスーンは、もう一度深くうなずいた。

弟子の生活

 次の日の朝から魔術師の弟子としての生活が始まった。夕方まで雑用や家事を行い、夜にラルスートから「魔術」を習った。ラルスートは常にマイルスーンの健康を気遣い、また、丁寧に魔術を教えた。
 まず湖岸の薬草を採ることから教えてもらった。毒草も含まれていたが、大部分は治療に使う薬草であった。いくつかの草にはマイルスーンもお世話になった。アリディア文字も習った。魔法の基本となる重要なものだ。一つ一つの文字を覚え、それから文法を学んでいった。そうして、次第に書斎の本も読めるようになって行った。
 時には動物の解剖も行ったが、マイルスーンが思い描いていたような、深夜に墓を荒らしたり、腐乱した死体を繋ぎあわせたりする「死人使い」ではなかった。俗世を離れた学者、という感じであった。ラルスートとの出会いもぼやけた思い出になった。
「師匠、ファタスファの人々はどうなったのですか。」
 信頼しながらもやや不安な面持ちで、こう尋ねたときも、ラルスートはしばらく考えて、穏やかに次のように答えた。
「心配することはない。確かにわしのために少し働いてもらったわ。しかしな、その後にルフィア湖の湖岸に埋葬した。きっと成仏したことじゃろうて。」
 マイルスーンは、「魔術」を習うことに夢中になった。実際、自分の知識がどんどん広がっていくのはおもしろかった。さらに、マイルスーンはよくラルスートに誉められた。父は、あまり他人を誉める人ではなかったから、マイルスーンはうれしかった。魔術師の弟子も悪くはないな、と思っているうちに三ヶ月あまりがすぎていった。

死人使いの留守

師匠の遠出

 弟子入りから九十九日目の朝、いつものようにマイルスーンがテーブルに食事を並べていると、ラルスートが声を掛けてきた。
「マイルスーン。わしは少し用事ができた。魔術師の会合があってな、三日ばかり家を離れなければならないのじゃ。おまえに留守番を頼むぞ。」
 マイルスーンは驚いて顔を上げた。ラルスートが、そんなに長期、家を離れるのは始めてである。しかし、マイルスーンは答えた。弟子として頼りになるところを見せる、よい機会である。すでにラルスートは尊敬の対象となっていた。
「はい。わかりました。任せておいて下さい。」
 ラルスートは頼もしそうにうなずく。
「うむ。わしも信頼しておるぞ。客人が来ることはまずないだろうが、もし来たとしても、絶対に家に入れてはならぬ。どんなことを言ってきても、だ。ここらへんには魔物が多いんでな。それでも無理に入ってくることはない。たとえ強盗が来たとしても、この屋敷の魔力がおぬしを守ってくれるからな。家の中の人間が戸を開けぬ限り、外のものは入れぬのじゃ。これが一つ目の注意じゃ。わかったな。必ず守れよ。」
「わかりました。誰が来て、何と言おうとも決していれません。」
 屋敷には守護の力がある、心強いことだ。
「二つ目の注意は、実験室の釜の火を、常に絶やさぬことじゃ。いつもはわしがまきをくべておるが、これから三日はいないのでな。薪なら昨日頼んでおいたから台所に十分にあるじゃろ。いいか、一日に三度、朝・昼・晩に薪をくべるのじゃぞ。忘れるな。」
「承知しました。毎日三回、かならず薪をくべます。」
 ラルスートはマイルスーンの返事にうなずき、そしてこれまでになく真剣な表情で最後の注意を与えた。
「三つ目じゃ。絶対に地下室に入ってはならぬ。どんなことがあっても、これだけは守れ。よいか、決して地下室に入ってはならぬぞ。」
 マイルスーンはあの地下室のことを忘れていた。今思い出したが、あの恐ろしそうな部屋には頼まれても入りたくない。そこで答えた。
「もちろんです。師匠に頼まれたって入りたくありませんよ。絶対に入りません。階段にすら足を触れることもしません。」
 ラルスートは、その答えを聞いてちょっと微笑んだ。
「そうか、それなら安心した。おまえに地下室の鍵を預けよう。できればわしが持っていきたいのだが、そうもいかなくてな。あの扉の鍵は強力なのだが、厄介なことに常に屋敷の中の誰かが持っていないと効力がなくなるのじゃよ。」
 それを聞いてマイルスーンは不思議に思った。彼が来る前に鍵を預かる誰かがいた、ということはない。弟子ができる前、ラルスートが外出することはなかったのだろうか。しかし、ラルスートと出会ったのは屋敷の外である……。
 マイルスーンの表情に気付いたのだろうか、ラルスートは慌ててつけ加えた。
「今までは外出から帰るたびに魔法を掛け直していたのじゃ。だいだい三日くらいはもつのでな。しかしわしも年をとったようで、すこししんどいのじゃよ。今回は弟子もできたし、そうした苦労はいらなくて済みそうじゃわい。」
 そしてラルスートは少し愉快そうに笑い声をあげた。マイルスーンもつられて笑う。不意にラルスートが真面目な顔に戻った。マイルスーンも笑いを止める。
「よいか、決して立ち入ってはならないぞ。」
 マイルスーンは三度ほどうなずぎ、それからラルスートを玄関まで見送った。
「書斎の本は自由に読んでよろしい。別に寝ていてもかまわんがな。ただし、わしの与えた三つの注意は守るようにな。わかったか。」
「はい。人を屋敷に入れないこと、実験室の火を絶やさないこと、地下室には入らないこと、でしたね。必ず守ります。」
「うむ。どうやら心配は不要のようじゃな。」
 そう言い残してラルスートは出かけた。

 それから一日目、二日目は何事もなく過ぎて行った。誰も訪れるものはなかったし、忘れずに毎度の食後に薪をくべる。実験室に入るのはそのときだけで、すぐに立ち去った。
マイルスーンは、ちょっと伸びをして書斎に向かった。いつもは滅多に書斎に入れてもらえない。だからせっかくの機会だし、本を読んでみようと思っているのである。書斎に入るな、とは言われていないし。
 マイルスーンは戸棚を一通り眺めた。日頃の勉強のおかげで題名はほとんど読める。その中から、何となく「精神看破」という本を取り出した。ぱらぱらとページをめくる。「第五章・六の二」に「人の虚実を見破る術」という項目を見つけ、役にたつ日が来るかもしれない、ふと思って読み始めた。
『相手の瞳を見て次の呪文を唱え……、それから次に印を結び……。』」
 夢中で読んでいて、ふと窓に目をやると、すでに太陽が天高く昇っていた。
「しまった、実験室の釜に薪をくべなければ。」
 あわてて台所に向かい、薪を取って走った。実験室のドアを開くと中に駆け込む。釜はすぐに見つかった。幸運にもまだ火は消えていなかった。薪をくべる。炎はやがて新しい薪も包み、赤々と燃え出した。やわらかな香りの煙が立ち込め、ほっと息をつく。
 部屋を出て、昼食を取ると、急に眠くなってきた。いつもこうなのだ。少し疲れているのだろうか。寝室に戻ってベッドに横になる。もうすぐ百日か、マイルスーンは弟子入りしてからの日々を思う。今考えてみると短かった。アリディア文字を習ったころのことを思い描いているうちに、まぶたが重くなってくる。そしてマイルスーンは眠ってしまった。

赤い髪の女の夢

 マイルスーンは夢を見ていた。いつのまにか一人の女がマイルスーンの前に立っている。美しい女性だ、とマイルスーンは思った。すらりとしていて、真っ白い肌に、長い、燃えるような赤い髪が流れている。彼女は整った顔立ちに悲しそうな表情を浮かべると、マイルスーンに衝撃的なことを言った。
「マイルスーン。あなたはファタスファを忘れてしまったの。ファタスファで殺され、あの老魔術師ラルスートに操られた罪のない人々の苦しみを忘れてしまったの。」
マイルスーンは面食らって女を見つめた。それから弱々しく、言い訳がましく言った。
「でも師匠は彼らを埋葬したといっていたよ。あのまま街に取り残されるよりは、すこしは師匠に尽くして埋葬された方がいいんじゃないか。」
「あなたはその言葉を信じたの。確かめたの。それに、一度でも死人使いの術を受けると、人がどうなってしまうのかわかっているの。」
 世間では、死人使いに操られたものは永久に成仏できない、とされている。マイルスーンは黙ってうつむいてしまった。確かに彼女の言う通りかもしれないからだ。実際、自分は死人使いの術については何も知らない。女は続けた。
「あなたはラルスートに騙されているのよ。」
 マイルスーンは驚いてその女を見た。
「き、君は誰なんだ。なぜそんな事を言うんだ。」
「わたしの名前は教えられないわ。でも、すぐに会いに行くわ。そのときまで待って。」
 女が少し寂しそうに答えた。
「なんで師匠が騙しているなんて言うんだ。君はどうしてそう思う。」
「わかるでしょ。彼とあったときのことを思い出してごらんなさいな。死人を漁るために戦場を巡るような人よ。それなのに、今は死人使いらしきことは何も見せない。そして、妙に優しい。かえって怪しいことだとは思わないの。」
 女はゆっくりと言った。
「なぜそんなことを知っている。君は何者だ。」
 マイルスーンは怒鳴った。そして怒ってその女につかみかかり、胸倉を引き寄せる。女の赤いネックレスとイヤリングが揺れる。女は、マイルスーンの手を手荒く払いのけながら、顔を真っ赤にして言った。
「言ったでしょ。今は答えられないって。あなたはおかしいとは思っていないのね。それとも、そう思い込もうとしているだけかしら。」
 マイルスーンは、女のすごい剣幕に押されて、狼狽し、ごまかすように答える。
「そ、それは、どうしてもぼくを弟子にしたかったのさ。きっと。師匠ももう年だし。それで後継者を創ろうとしているんじゃないか。だから優しいんだ。ぼくのことを息子のように扱ってくれているもの。そうに決まっているよ。」
 女はその間に落ち着きを取り戻し、また優しく微笑んで告げた。
「違うわ。彼があなたに優しいのはそんなわけじゃない、もっと別の理由があるの。書斎の机の、上から六番目の引き出しを開けてごらんなさい。彼が優しい理由が分かるわ。」
「いったい何があるんだ。それに、なぜ君にぞれがわかる。」
「自分の目で確かめて。じゃあまたね、マイルスーン……。」

 マイルスーンははっと目覚めた。喉がからからだ。台所に行って水を飲みながら考えた。あの夢はただの夢なのだろうか。それとも……。
 夕食を取り、三回目の薪をくべた後、マイルスーンは書斎にいた。木の葉が彫刻されている机の六番目の引き出し。鍵はついていない。マイルスーンはそれをじっと見つめていた。開けるべきか、立ち去るべきか。
「待てよ。師匠は別に引き出しを開けるな、とも言っていないよな。」
 マイルスーンは引き出しを開けてみた。一冊の本があって、赤文字で「禁書」と記されていた。マイルスーンは一瞬ためらったが開いてみた。第六百二十八ページが自然に開く。
「汝、死を迎うる前に生け贄を用意せよ。魔術師の血を引く若者が良い。ただし、まだ憑依されていない肉体であること。さすれば、彼を手なずけ、油断させて薬品をあたえよ。固・液・気、いずれの形でもよい。そして胸を裂き、生贄の心臓を取り除いて新しい心臓を埋める。それに、第七章の呪文を用いて汝の魂を込めらば……、」
 「憑依」の魔法である。目標の肉体に己の魂を乗り移らせる呪文である。「死人使い」の術の中でも最高クラスのものだ。年老いた強力な魔術師はこの禁呪をもって若者の体を乗っ取り、無限の寿命を得ようとするという。マイルスーンはあわててその本を閉じた。まさか、そんなことがあってよいはずがない。見ろ、赤文字で「禁書」と記してあるではないか。師匠はこれを用いぬことを決意したのだろう。そうに違いない。

赤い髪の女との出会い

 玄関で何か音がする。マイルスーンを現実に呼び戻す。どん、どん、どん、と扉をたたく音だ。マイルスーンは本を戻し、引き出しを閉めて、すぐに玄関に走った。
「何のようだ。誰だか知らないが、ラルスート師ならいない。早く立ち去れ。」
扉の向こうに怒鳴る。
「わたしよ、わたし。ラルスートがいないから来ているのよ、マイルスーン。それよりもねえ、引き出しは開けてみたの。」
 夢の女の声だった。起きてみて聞くと、玉を転がしたように美しい声だ、とマイルスーンは壁に腕を掛けて少し考えた。けれどもマイルスーンはぶっきらぼうに言った。
「君は誰だ。いったい何のようだ。」
「あら、まだ開けていないの。わたしのことは知っているんでしょ。あなたには夢の中で挨拶をしたもの。それよりも、わかっているの。このままではあなたは殺されるわ。死にたくないんでしょ。そうなら早く扉を開けなさい。」
「悪いが君を入れてはならないことになっている。早く帰ってくれ。」
 マイルスーンは指の爪をかんで、記憶を探りながら答える。
「人の話を聞いているの。引き出しは開けたんでしょ。ラルスートが戻ってきたら殺されるのよ。その前になんとかしなくちゃ。早くわたしを入れて。もう時間がないのよ。彼が戻ってきたらおしまいよ。わたしがいれば彼を倒してあげられるわ。早く。」
 マイルスーンは密かに「精神看破」の本で読んだ、嘘を見破る術を用いた。まさかこんなに早く使う日が来るとは思っていなかったが。覗き穴から女の瞳を見つめ、ぶつぶつと呪文を唱えて、印を結ぶ。
 周囲の音と光が吸い込まれるように消えていき、暗闇の中に女だけが残った。その瞳は、「赤」に輝いている。魔術書には、たしかこう書いてあった。瞳の色が「緑」ならば相手は正直である。「黄色」ならば相手は言うべきことを隠している。それから「赤」ならば……相手は嘘をついている。マイルスーンは冷たく笑って言った。わざと語気を荒めて怒鳴った。
「騙されるものか。嘘をついても無駄だ。師匠は俺の恩人だ。裏切るようなことはできない。」
マイルスーンが立ち去ろうとすると、それを感じたのか、女が叫んだ。
「待って。」
マイルスーンがまた覗き穴から様子を観察すると、女はネックレスをいじりながら、目に涙を浮かべて訴えていた。
「ごめんなさい。あなたの言うとおり、わたしは嘘もついていた……。でもそれは、あなたに余計な心配を掛けたくなかったからなの。」
「どういう嘘をついていたんだい。」
 マイルスーンは幾分か優しく尋ねた。それから先ほどの魔法に再び集中した。
「わたしがラルスートを倒す、というところよ。本当は、わたしがラルスートを倒すことはないの。あなたに、その方法を教えてあげられる、ということなの。もういいでしょ。これで満足したかしら。早くわたしを入れて。」
 彼女の瞳は黄色く輝いていた。まだ何かを隠しているらしい。マイルスーンはしばらく考えた。
「物を盗むとか、他人の家で勝手なことをしないと誓うか。」
 彼女は答えた。
「もちろんよ。」
 すると、彼女の瞳は青く光った。
「あ、ああ。わかった。ちょっと待ってくれ。」
 彼女の話が本当のことかはわからない。魔法では嘘は言っていない、と出たが、この魔法はたとえ嘘であっても、対象が信じていれば「嘘」とは認識しない。これは「精神看破」の本にも書いてあったことである。気違いなのかもしれないのだ。しかし、害をなすことはしないと誓ったのだ、そう思ってマイルスーンは扉を開いた。女は安堵したように、にっこりと微笑んで入ってきた。

 玄関でしばらく互いを見つめ合った後、マイルスーンは、とりあえず居間にむかって歩いていった。女は黙ってマイルスーンに従ってくる。マイルスーンは探るように訪ねた。
「師匠がぼくを殺そうとしている、と言ったね。」
「決まっているわ。あなたは『師匠』の魂の容器になるのだから。」
 女がきっぱりと答えた。居間につくと、女はさっさとソファに座った。マイルスーンもそれに倣う。何とも言えずに苦笑して尋ねた。
「で、君をなんて呼べばいい。」
「リーストゥル、だけど、リースって呼んで。」
それから深呼吸をして聞いた。
「師匠が憑依の術を用いる、と。」
「その通りよ。」
「じゃ、じゃあ、師匠が、いやラルスートがぼくに優しいのは……。」
「ええ。あなたの肉体が自分のものになると知っているからよ。」
 マイルスーンは立ち上がって居間を歩き回り始めた。
「とても信じられないな、そんな話。それにそうだったなら、なぜ出会ったその時にやってしまわなかったのだ。」
「まだわからないの。あのね、あの本を読んだのでしょ。書いてあったことを覚えていないの。」
 と、赤い髪の女、リースはいきなり立ち上がって顔を上げた。その美しい顔に緊張が走る。
「ラルスートが戻って来るわ。もう帰らないと。」
 それからマイルスーンの顔を覗き込んで言った。
「いいこと。わたしが来たということは絶対にしゃべってはだめよ。もし話したら、わたしたち二人とも破滅するわ。もし何か疑われるようなことがあったら、台所の四番目の棚のブランデーを少し呑んでしまった、と言いなさい。」
 そしてリースは出て行った。マイルスーンは台所に行ってみて、四番目の棚を調べた。言葉通りブランデーがあったので、ちょびっと呑んだ。ほろ苦い味が口に広がり、ちらちらと光が瞬いて、世界がぼんやりとふくらむ。マイルスーンの髪の毛が何本か赤く変色して落ちた。急に眠くなったきたので、寝床に入った。

赤い髪の女との約束

 また夢を見た。星空にリースがいた。馬に乗っている。マイルスーンは寝床に横になったまま。リースはマイルスーンに気付いて言った。
「わかっているわね。何があってもわたしのことは秘密よ。何事もなかったかのように、振る舞うのよ。」
「ああ。わかった。」
 マイルスーンは答えようとするが、口が動かない。リースがけげんな表情を浮かべて馬を寄せる。ぱかぱかと蹄の音が近づく。
「何があっても、よ。」
「もちろん、わかっているよ。」
 口を開こうとするが、言うことを聞かない。
「マイルスーン、わかっているの。これはとても大切なことなのよ。」
 口は開かない。リースはどん、どん、と窓ガラスを叩く。
「マイルスーン、聞いているの。マイルスーン……。」
 口は開けない。

【後編】に続く

著作・制作/永施 誠
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