約束の都−第一章

  1. 第一章

初版:2003-07-31

目次

全体

  1. 第一章 父の遺産
  2. 第二章 水晶の都

章内

第一章 父の遺産

一、

 とある街に商人の家がありました。そこの兄妹は、長いことお父さんと三人で暮らしてきました。お母さんは娘を生んですぐにこの世を去っていたのです。
 しかし三日前の晩、しばらく病の床に伏せっていたお父さんもとうとう亡くなってしまったのです。兄と妹がその死を看取りまして、今日はそのお葬式です。お父さんは、一時は成功し豪商とも呼ばれた人でしたが、お母さんがいなくなって後、落ちぶれてしまっていましたから、それはそれは慎ましい葬式です。昔ならあれほど腰を低くしてお金を借りに来た親族もほとんど列席せず、二人の世話をしてくれたのは、既に他界した母の弟、すなわち兄妹の叔父さんだけでした。

 妹は、お父さんが今際のときに遺した話を思い起こしていました。
「世の中には善人と悪人とがいる。善人の助けを得るためには誠実でなければならぬ。悪人の企みを避けるためには賢明でなければならぬ。誠実であるとは、何よりも約束を果たすことだ。賢明であるとは、何よりも約束を為さないことだ。」
 その言葉に依れば、私たちは、誠実な人間になるか、賢明な人間になるか、どちらかを選ばなければなりません。その上、もし誠実な人間になって約束を果たすよう努力すれば、いつか悪人の企みにはまってしまいます。逆に、もし賢明な人間になって約束を為さないよう注意を払っていると、善人の助けを得られません。人に好かれる道を選べば必ず憎むものが現れるが、人に嫌われぬ道を選べば愛してくれるものもいない、そういうことなのでしょうか。
 あのとき、二人の子の顔を見つめ、お父さんはまず、兄に対して語りました。
「父さんはいずれにせよ中途半端だった。社会の闇を避けることもできなければ、その暗部に絡み取られようとしたとき助けてくれる友人も作ってこなかったのだから。」
 そう、約束を為してしかもそれが果たせない場合もあるでした。母が亡くなったとき、父は確かに、兄妹が大人になるまで立派に育てる、そう約束しました。お父さんは、妹の手を握りました。
「母さんがいなくなったときの約束、果たせなくてごめんな。」
 そしてそれが、父の最期の言葉だったのです。

 妹には、もう一つ、繰り返し反芻する会話がありました。
「父さんは約束を果たせなかったと謝ったけど、おまえは今でも父さんが大好きだよね?」
 息を引き取った父に縋り付いて、泣きたいだけ泣いた妹が、ようやく泣き疲れて静かになったときの、兄の問いかけです。父が約束を為したとき、妹は生まれたばかりで、もちろんそんなことはわからなかったでしょうが、妹が全く記憶にない母のことを思うたびに、それを察した父が繰り返していましたから、父の約束のことは、妹もよくわかっていたのです。
「……うん。」
 腫れぼったい目で兄を見上げると、兄はしゃがみこんで抱きしめてくれます。冷たくなってしまった父さんとは違い、温かい胸でした。
「父さんの約束はぼくが引き継ぐから。おまえが一人前になるまで、きっとぼくが面倒を見る。約束するよ。」
「うん。」
 照れるような状況でもありませんでしたが、気丈な兄は父の遺言を思い出していました。
(ぼくは賢明ではないのかもしれない。そうだとしても、ぼくは誠実に妹を育ててみせる。)
 兄さんも、実は少し泣いたみたいでした。

 兄妹は今、黒い喪服に身を包んで、広い屋敷の玄関近くにぽつんと立ち尽くしています。この家も、実はお父さんの借金の形に取られてしまっていましたから、兄妹のものではなく、父の死とともに無くなってしまうものでした。
 半螺旋の階段が二つ、玄関の両脇から二階に伸びていて、そこからは階下を見下ろす半円形の小広場みたいなところが見えます。父を迎えに、別々の階段を兄と二人して競うように駆け下りたものです。父と兄と自分とは、別々の道を通ってきても、この玄関で一緒になるのです。だから、妹はこの玄関を最も気に入っていました。
「お兄ちゃん、わたしたち、これからどうするの?」
 いつも父が開けてくれた茶色の扉を見つめ、また泣きそうになって妹が聞きました。父を亡くし、途方に暮れていました。
 叔父は二人を引き取ってくれるようなことも口にしましたが、ひとまず家に帰ってしまったのです。いずれにせよ、住み慣れた家が既に人手に渡っていたというのは、大きな衝撃でした。
「そうだな。どうしようか。」
 兄が答えました。この家の新たな持ち主が父の葬式が終わるまで善意で待っていてくれたことはわかっています。とはいえ、叔父の申し出を断るつもりでした。盛時の父の援助を受けていない人でしたし、叔父の家も暮らしに余裕があるわけではないことをよく心得ていたのです。
 そして兄には、実のところ考えがあったからです。

 兄は、母が亡くなった頃の言葉を思い起こしていました。つまり、ちょうど妹が生まれた頃の話です。
「我が家の倉庫に金色の文様で彩られた黒い壺がある。鉛の蓋がしてあってな、随分と重くて、中に何か納められているみたいなんだ。」
 父さんは目をつぶってしばらく言葉を切ります。
「ちょうど母さんと結婚したころだった。魔法使いの家系の末裔だと称する男が売り込みに来たんだ。……むしろ母さんを目当てにしていた様子があった。」
 父さんは続けました。
「男は、壺には悪魔が封じられていて壺を開けたものの願いを何でも叶えてくれる、そう熱を込めて語った。父さんは、もちろんそんな言葉は信じなかったが、それでも言い値で買い取ったんだ。」
 不思議そうな顔をする自分の息子に父は答えました。
「もし願いを叶えてくれるのが本当なら、壺を売り出すことなどせず、自分で開ければよいわけだ。」
 息子は沸き上がってくる次の疑問を口にしました。
「じゃあ、どうして買ったの?」
「そうだな……。その前に、おまえにも聞いてみよう。壺を開けたらどうなると思う?」
 息子は頭を捻りましたが、想像も付きませんでした。
「……わからない。どうなるの?」
「父さんにもわからない。」
 父は大げさに両腕を広げて話します。
「もしかしたら開けたものを八つ裂きにしてしまう悪魔かもしれん。あるいは噂に依れば、人外の魔物でもそれなりに恩義を感じるものらしいから、案外、願い事を叶えてくれるのは本当なのかもしれない。魔法使いの家系というのは法螺話で、実は空っぽの壺なのかも。もっとも、本当のところは開けるまでわからないだろう。」
 そのときの兄は、しばらく悩んでいました。八つ裂きという言葉を聞いたときには少し震えてしまったのですが、考えれば考えるほど、壺には何かがいて、開けたものの願いを聞き届けてくれるに違いない、と思えてくるのでした。
「開けてみようよ。」
 そうして遂に、息子は目を輝かしましたが、父は笑って首を横に振ります。
「ああ、開けてみたいと思う気持ちはわかるよ。だが、開けずにいるからこそ、開けようかと迷うことができる。開けてしまったら、開ける前のちょっとした興奮と恐怖、それに隠しきれない期待を感じることはできない。それこそが楽しいのに。……つまり、父さんは壺の中の秘密を買ったんだ。これは一つの道楽なんだよ。」
 そう言うと、父はいつもみたいに、息子の頭を撫でます。
「いいかい、あの壺はお父さんの夢なんだから、勝手に開けてはだめだよ。」
「……うん、わかった。」
 少し迷って、少し不満を残しながら答えると、突然、赤ん坊の泣き声が響き渡りました。妹が目覚めたのでしょうか。お父さんは急いで小指を差し出しました。
「よし、絶対にあの壺を開けない、と約束してくれ。もうおまえはお兄さんなんだから、父さんと男と男の約束ができるはずだ。」
 兄は好奇心が残っていたものの、仕方なく言いました。
「わかった。約束する。」
 そうして息子と指切りをかわした父は、もうすっかり大きくなった兄の頭を撫でると、妹の様子を見に行くのでした。父の後ろ姿を見ながら、そう言えば母さんは壺のことを知っていたのだろうか、そんなことを考えた気がします。
 父の商売が巧くいかなくなったのは、今思えば、まさにちょうどその頃でした。けれども、父は結局のところ壺の伝説を信じていなかったのか、あるいは心の底では恐れていたのか、壺を開けないまま、いやもしかしたら壺のこと自体を忘れてしまったまま、この世を去ったようです。
 そして、兄は今まで約束を守っていたのですが、今こそ壺を開けるときだと決断したのです。

「ちょっと待ってろ。もし、ずっと待っても帰って来なかったら、叔父さんに面倒を見て貰うといい。」
 兄は妹に言い含んで地下室の倉庫に向かおうとしました。たいていの品物は売り払っていましたが、あの壺だけはまだ遺っていることを、兄は知っていたのです。
「帰って来ないって! お兄ちゃんも行っちゃうの?」
 妹は、もちろん納得しませんでした。
「いや、そんなに遠くに行くわけじゃないし、もしもの話だよ。まず心配ないさ。」
 妹は兄の服の裾を掴みます。
「どこに行くの?」
「ああ、地下室だよ。倉庫に父さんの遺品を確かめに行くんだ。」
 妹はとにかく兄から離れるつもりはありませんでした。
「ならわたしもいく。」
 兄は仕方がないな、と振り返り、妹に壺の話をしました。いつも妹を騙しているときのように、わざと怖がらせるように話します。嘘かもしれないと思えば引き留めないでしょうし、少し怖いと思えば着いてこないと考えたのでした。けれども、父を失ったばかりの妹は、兄の側にいたいのでした。
「わたしもいく。」
 妹は少し腹が立ってきます。
「わたしが大きくなるまで一緒に居てくれるんじゃなかったの?」
 自分がとても頼りにしている約束なのに、兄はもう忘れてしまったのでしょうか。ちっとも誠実じゃない、妹はもう少しでそう叫ぶところでした。それに決めたのです。初めて聞いた壺を恐ろしく思い、とりあえず一緒に見て、本当に危なそうなら決して開けさせない、と。
「……わかった。」
 妹の目が少しだけ潤んでいることに気付いた兄は、その頭をくしゃくしゃとしてから、ぎゅっと抱きしめてやります。
「一緒に行こうね。そうだね、約束したもんね。」
 きっと危険はない、もし何かあっても自分が守ってみせる、兄はそう考えることにしました。

二、

 じゅっと燭台が音を立てて、陰気な光が地下倉庫を照らしました。父の財力の低下と共に、倉庫からは次第に活気が去っていったのですが、今夜は特に薄暗く、冷たく、そして寂しい雰囲気です。がらんとした倉庫の奥に、木の箱が一つ、濁った緑色の布に包まれて残っていました。
「あれかな。」
 兄の手を握りしめ、妹は尋ねます。兄は、黙ったままいったん妹の手を離すと、箱に近寄りました。兄は一人で、できるだけ埃がたたないように、少し気を付けて包装を解きます。妹は口を閉ざしその場で静かに見守っています。
 箱に入っていた物は、果たして壺でした。壺は、膨らみのない、真っ直な円柱のような形をしていました。磁器とも金属ともつかない不思議な物質でできているようです。真っ黒で、ひんやりとした冷気を放ち、父の言葉通り、金色の呪文のような複雑な文様が表面にびっしりと刻み込まれています。鉛でしょうか、鈍い灰色の金属が、蓋となって壺の口のところを塞いでいます。
「……。」
 妹は心の底で、兄を止めた方がよいと直感しましたが、視界から頭に直接入り込んでくるような、重苦しい壺の存在感に圧倒され、言葉を口にすることができません。
 兄もやはり黙ったままで、少し身を離してじっと壺を見据えます。それから、少し真剣に顔を引き締めて壺ににじりより、金色の文様を少し擦ってみたりします。何が書いてあるのかは全くわかりませんでしたが、何故か箱の中に埃の類は一切付着しておらず、指が汚れることはありませんでした。
 兄は、どうやら本物に違いないと確信し、どこから取り出してきたのか、鑿を右手に壺を左手で抱え込みます。
「開けてみるよ。」
 兄はふと気付いて、妹を一度振り返りました。壺をまじまじと見つめる妹を、反対の意思がないものと解釈したのか、そのまま視線を壺に戻し、右手を振りかざしました。

 そして兄が気付いたとき、目の前の空間に、小さな小さな、それこそ掌に乗ってしまうくらいの、深紅の牛が浮かんでいました。
「そなたが壺を開けたのだな?」
 宙の見えない大地に脚を折るかのようにして寝そべっていた牛は、こちらに顔を向けると尋ねました。どうやら喋る牛のようです。真っ赤な身体の中で、爛々と眼だけが翠色の光を放っています。
「……あ、ああ。」
 眩しい翠の光を遮るように手を翳し、兄は答えました。
 兄はぼんやりと牛の反応を待ちましたが、深紅の牛はこちらを見つめるだけでした。光に慣れてきた兄は、手を降ろすと、今度はこちらから聞いてみます。
「おまえは何者? 悪魔なのか?」
 深紅の牛はゆっくりと立ち上がりながら、といっても依然としてその身体は空中に浮かんでいるのですが、答えます。
「何と呼ぼうとそなたの好きにするがいい。」
 困ったように口を閉ざしてしまった兄を見て、深紅の牛は少し間を置きつつも続けます。
「何だ? 約束事を知らずに壺を開けたのか?」
 ほんの少し、深紅の牛は笑ったように思えました。
「……願い事を叶えてくれると聞いて開けたんだ。」
 兄は、何となく怖くなって、父の話を思い出します。
「それは外れているとも言えないが、正解とも言い難いな。」
 と翠の光がふっと消え、かわりに向こう側が翠に染まりました。深紅の牛が振り返ったのです。そこには、例の壺がありました。開けようとしたときとほとんど変わらない姿でしたが、ただ一つ、鉛の蓋だけは跡形もなく、なくなっています。
「厳密な決まりは壺の周りに刻んであるはずだが。読めないのか?」
 また、深紅の牛は笑ったように思えました。
「できれば、ぼくにもわかるように、全部説明してほしいのだけど……。」
 兄は一応言ってみます。
「いいだろう。」
 意外にも、深紅の牛はあっさりと了承します。
「願い事を叶えると言えば叶える。だが、こちら側が一方的に奉仕するわけではない。どちらかというと取引なのだ。契約というべきかな……」
「壺を開けてあげたじゃないか。」
 兄が話の腰を折るように突っ込んでみましたが、深紅の牛はそっけないものでした。
「別に頼んだわけではない。……まあそれはよい。」
 深紅の牛はまた少し笑ったように思えます。
「……とにかく、これは契約なのだ。まず、そなたの願い事を聞く。別に何でもよいが、私が果たすものなのだから、私の能力の及ばないものは承諾できない。とはいえ、そうでないなら無条件で断ることはしない。ここまではわかるか? 幾つかの不明と思われる点は後で説明するつもりだが。」
 兄はとりあえず頷きました。叶えたい願い事ならあります。しかし、どうやら代償が必要とされるようです。
「うむ。そなたの願い事を聞いた私は、かわりにそなたが守るべき『約束』を提示する。これを守ると誓うことが、私が同じく願い事の成就を約束する条件となる。」
 兄はまた口をはさみます。
「つまりは、相互に約束を課す、ということなのか?」
 深紅の牛は頷きました。
「そう考えても良い。繰り返すが、これは取引なのだ。そしてお互いが納得した上での契約だから、私が述べる『約束』を守れないと思えば、断って構わない。……もちろん断ったら取引は成立しない、つまりおまえの願い事が叶えられることはない。」
 深紅の牛は言葉を一旦切って、しばらく待ってから確認しました。
「理解したか?」
 兄は、どういうわけか額に汗が浮かぶのを感じながら頷きましたが、同時に軽く右手を挙げます。
「もしこちらがその『約束』を破ってしまったら? あるいはおまえがぼくの願い事を叶えられなかったら?」
 深紅の牛は、翠の瞳をぎらりと輝かせ、それから答えます。
「取引は無効になる。そなたが『約束』を守らなかったら、こちらも約束を破る。もし既に願い事が果たされていたのなら、それが意味を成さなくなるようなことになる。……だが、私から約束を破ることは決してない。私は、守れないのなら、そもそも最初から約束しない。」
「……それも約束なのか?」
 兄がちょっと笑いましたが、深紅の牛は冷静でした。
「ああ、壺の作り主との、な。壺の作り主は自分の『約束』を守ってその生を全うしたから、私もずっと、この約束を守り続けなければならないのだ。」
 それは前提として納得するしかないと思って、兄はもう一つ質問をしました。
「その……願い事の提案は何回できる? はじめに提案された取引を呑めなければ、それで終わりなのか?」
「いや、そんなことはないが、私が姿を保てるのは夜明けまでだ。夜明けまでに取引が成立すれば、私はおまえの魂に居場所を作ることができる。が、取引がまとまらなければ私は消滅する。そうなれば、もう永遠に取引はない。」
 恐ろしいことを相変わらずそっけなく、深紅の牛は淡々と語ります。
「要するに、回数ではなく、時間的な制約が存在するということだろうな。」
 とうとう、深紅の牛は挑むように問いかけました。
「試してみるかね?」

 目映い赤い光に照らされて妹は目覚めました。いつの間にか横になっています。半身を起こして見遣ると、立ち尽くす兄が、虚空に向けて掌を指しだしています。激しい輝きはその空中の一点から放出されているようです。と、そこから兄の掌に向けてすうっと赤い光源が吸い込まれ、兄の身体全体がぼうっと紅に染まった後、赤い光が消えました。
 地下倉庫はぼんやりとした蝋燭の照明に包まれています。兄の足下には、蓋をしたままのあの壺が転がっていました。ぼんやり壺を見つめていると、兄が近づいてきて、横たわる妹に向けて手を差し伸べます。
「さあ、立って。」
「あ、ありがと。」
 わけがわからないまま、妹が兄の手を取って立ち上がると、兄はにっこりと微笑みます。その笑顔を見たときには、不思議なことに、妹はもう壺のことをすっかり忘れていました。
「では行こうか。」
「え?」
「迎えが来ているはずなんだよ……ぼくらの都から。」

 地下倉庫から梯子を上って屋敷に戻り、玄関の茶色の扉を開けると……そこには壮麗な馬車が待ちかまえていました。馬車の外には、豪奢な礼服に身を包んだ人たちがいて、兄妹を認めるとうやうやしくお辞儀するのです。
「お待ちしておりました。我が王国の後継者殿下、我らが明日の陛下。」
 妹はぽかんとして兄を見上げました。相手方はわずかに微笑んで何事か口を開こうとしましたが、兄の方は極めて落ち着いて、軽く右手をあげてそれを制すと、馬車の方に身を進めます。相手方は一瞬、驚いて互いの顔を見つめ合いましたが、すぐに丁重な出迎えの構えを見せました。兄が左手で妹の手を引きながら馬車に乗り込もうとするので、妹もとりあえず従います。何か、質問をし難いような雰囲気がありましたし、いずれにせよ、妹は兄を信頼していたのです。
(……。)
 妹は、最後に一度だけ屋敷を振り返りました。父と兄と家族の思い出がいっぱいの玄関を。また、家の屋根を見つめます。よく、兄に引き上げてもらって、星空や日の出を見物したことがあったものです。時には、屋敷から彼方まで伸びる道を眺め、自分もいつか家を離れ、この道を進んでどこかへ旅立つ日が来るのかもしれない、そう考えたことがあったのです。けれども、その日がこんなにも早く来るとは想像もしませんでした。

【第二章】に続く

著作・制作/永施 誠
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