約束の都−第二章

  1. 第二章

初版:2003-07-31

目次

全体

  1. 第一章 父の遺産
  2. 第二章 水晶の都

章内

初版:2003-07-31

第二章 水晶の都

一、

 昔、その国の都に我が儘で有名なお姫様がおりました。お姫様はある日、父である王様が決めた婚約を嫌がり、世話役だった老騎士に手引きを無理強いして逃げ出してしまいます。お姫様は国の外で、ある若者と恋に落ち、そこで暮らすことになります。老騎士はお姫様をその若者に託すと、自分は国に戻って事の顛末を報告し、そして処罰を願いました。老騎士のその後の処分は明らかではありませんが、王様はもうお姫様を取り戻そうとはしなかったということです。
 それから、百年近い月日が流れ、姫君の母国に危機が訪れます。王家の血を引く者が次々に倒れ、王座に就ける資格を持った者が途絶えてしまったのです。そこで、国の忠臣たちは、かつての姫君のことを思い出しました。もしかしたら、国の外になら、王族の血を受け継ぐものが残っているかもしれない、そう考えたのです。
 そうして、調査のために王室顧問団が派遣されました。彼らは、旅の末に、とうとう姫君の後継たる家系を見つけます。新しく王冠を戴く人のもとに駆けつけたのです。運命とも言うべき、不思議な導きによって……。

「少し変わったお姫様だし、おかしな国なんですね。」
 妹が率直な感想を漏らしました。もしこの話が本当であれば、その変わったお姫様というのは兄妹の先祖にあたるわけですが。そして、そのおかしな国というところに、今向かっているところなのです。
「それには、我が国の独特な事情が関係しているのでございます。」
 兄妹を迎えた王室顧問という人が説明をはじめました。ふと兄に目を遣ると、兄はじっと眼を瞑って聞いていました。
「我が国の王都は『水晶の都』とも呼ばれてございます。城、城壁、教会、そして主要な建築物がすべて水晶で造られているからであります。」
 妹はその話にびっくりして気付きませんでしたが、このとき兄はふっと目を開けました。妹は驚きを質問にしました。
「それでは、さぞかし眩しいでしょう。目が潰れてしまわないかしら。」
 王室顧問は首を振りました。どこか寂しそうでした。
「いいえ。都の上空は年中、黒く分厚い雲に覆われております。そのせいで、水晶が日の光を浴びることはないのです。確かに都中に掲げられた松明・蝋燭による輝きに照らされる水晶は、こうして都の外にいて思い返すと、この世で至上な美しさとして脳裏によみがえるのですが、さすがに目を射抜くほどではありません。」
 兄は微笑みましたが、妹は少し複雑に笑います。
「まあ……お日様が見られないなんて。水晶に囲まれていても、それは祝福ではないのかも……しれませんね。」
 妹は、やっと気付いて、相手に併せて丁寧な言葉使いを心がけました。
「ええ。年中、都の内にいなければならない者の中には、それを嘆くものも随分ございます。まあ、都の外にいれば太陽に飽きるように、都の中にいると水晶にも飽きてしまうものですから。」
「お日様に飽きるなんて……そんなことはありません。」
 妹がちょっとだけ口を尖らせると、兄はその肩を抱き寄せます。
「同じように、水晶に飽きることのないものも大勢いるのさ。」
 王室顧問はちょっと微笑みます。
「そういうことかもしれません。まあ、お話したお姫様は水晶の煌めきに飽きなさったお一人なのかもしれませんね。」
 ここで口を切ると、王室顧問は兄妹の方に身を寄せて囁きました。
「それから、水晶の都には一つの言い伝えがあるのです。何でも、国を創始した初代の国王陛下が、力ある存在と交わした契約とのことです。……我が国がその玉座に資格あるものだけを就ける限り、つまり王家の血統を維持することを約束すれば、都には巨万の富がもたらされる、というものです。その力を受け、かつての都は水晶に彩られ、今日まで続く『水晶の都』が完成したというのです。」
 兄が言いました。
「都の者は多かれ少なかれ、その言い伝えを信じているから、有力な貴族が王位に就いたりせず、一度は国を離れた者の末裔であっても、都に迎え入れるということですか。」
 王室顧問は頷きます。
「その通りです。正直に申しまして、我々の中には水晶が失われることをだいぶ恐れているものが大勢おりますから。……勿論、王室への忠誠心が大きいのですが。」
 彼は少し苦笑して、許しを請うように軽く頭を下げました。
 兄は納得したようでしたが、妹は少々不思議に思いました。たいていの王国では、玉座に就くものは王家の血を引いているのではないでしょうか。随分と当たり前な約束で大きな恩恵を与えられたものです。しかし、妹はそれ以上は気にしませんでした。それがお日様の恩恵にあずかれない可哀想な国への、代償としての祝福なのかもしれない、そう判断したからです。
 と、急に暗くなってきました。それまで晴れていて馬車の中も明るかったはずなのですが。兄妹は顔を見合わせ、王室顧問は馬車の外に目を遣りました。
「そろそろ国境に近づいて来たようです。」

 貴族たちの歓迎、王国と水晶の都についての説明、そして与えられた王族としての暮らし。兄の戴冠式と諸々の式典を終えても、なお妹には現実感が湧きませんでした。常夜の都の無数の照明が照らす水晶、壁と床と天井と、本当にあらゆるところが常に幻惑的な輝きを放っています。むしろそのせいで、全てが夢なのではないかと疑ってしまうのです。
(いや、これは夢ではない。夢であれば疑いを抱くと目覚めるはずだもの。)
 妹は目を擦るのです。最近、兄と朝日を迎える夢をよく見ます。それから、父を加えて、庭で遊ぶのです。日の光を浴びている夢からふと目覚めると、そこは美しくも薄暗い水晶の寝室なのでした。夢と現実とが逆転してしまったようだ、そう妹は考えていました。
 妹は、今は王妹として王女と称され、非常に豪勢な暮らしを約束されていました。食事も服飾も、何もかも最高の品が提供されましたし、公務と言われて出席する舞踏会やら音楽会やらでも、高貴で礼儀正しい人々に丁重にもてなされました。それに、ほとんど常に、どこかしらに侍女たちが控えていました。本当に、ないものはお日様の光、ただそれだけなのです。家庭教師について勉強をすることにはなっていましたが、これさえも恵まれたことのような気がします。
「都の人は何をして暮らしているの? ……そう言えば、お日様の助けがないみたいだけど、パンを焼く小麦はどこから取れるの?」
 しばらくは自分のことにしか気が回りませんでしたが、この豪華な品物はどこから来るのだろう、と思い至って、侍女に聞いてみたことがあります。
「あら王女様、我が国では一般市民は働きませんのよ。というよりも、働く必要がないのです。働くのは、国の政を行う王様と貴族、王様と貴族の世話をする名誉ある市民、そして水晶を削り取る職人たちが少しだけ、です。」
「そうですよ。外の国では選ばれた人だけが働かないそうですが、水晶の都では、逆に選ばれた人だけが働くのです。仕事を与えられるというのは、とても名誉あることなのですよ。」
「仕事をするのが名誉あるということなの?」
 妹は驚きました。真面目な方でしたが、父の生前、毎日忙しそうな大人たちを見て、ほんの少しだけ子供の方が幸せかもしれないと思ったことがありましたから。
「水晶を削り取る、そのおかげで?」
「はい。なにしろ、都全体が水晶で出来ていますし、なんでも王宮の奥には宝石の生る庭園があるとか。その場所は、王様と選ばれた職人たちしか知らないそうですが。」
「代々の王様は、宝石と水晶を売ったお金を惜しげもなく市民に施してくださるのです。パンも馬車も服も食器も燭台も松明も、何もかもそのお金で外の国から買って来て、必要なだけ支給されますのよ。」
「だから、名誉ある市民以外は働く必要がないのです。」
 働かなくてよい、働く必要がない、妹は呟きました。これも日の光がないことに対する代償なのでしょうか。考えてみれば、たとえば畑を耕そうにも、太陽の恵がなければ小麦が育つことはないのでした。働く必要がない、働いても実りがないとういことかもしれません。

「どう? 水晶の都の暮らしは? きちんと勉強しているかな。」
 忙しいであろう職務の合間に、兄が会いに来てくれます。兄は真摯に王としての務めを果たしているようでした。
「うん、とっても幸せみたい。」
 はじめこそ、妹はこう答えていましたが、とうとう正直に告白しました。
「それにしても水晶の都は美しいね。」
「時々、夢を見るの。お父さんとお兄ちゃんと、お日様が照らす庭で遊んでいたときが懐かしいみたい。我が儘を言うつもりはないけど。」
「……そうか。」
「それに、お兄ちゃんがきちんと働いているのを見て、わたしも少し何かしたいと思うようになった。」
「……。」
 妹はそれからどっと語り出しました。思えば、生まれてから母を亡くした後は父に、その父を亡くしてからは兄に養ってもらっていますが、いつまでも兄の側にいるというわけにはいかないはずです。兄も妹以上に愛する人を見つけるだろうし、自分も結婚して子供を産むことになるでしょう。
「わたしは確かに子供だったから何もできなかった。だから、父さんやお兄ちゃんが守ってくれて、わたしが喜ぶようなものを与えてくれた。でも、この都に来てから気付いたの。与えられ、守られているから何もできない、ということもあるんだなって……。」
「そうか……。おまえも成長したみたいだな。」
 兄さんの返事が少し残念そうだったのが妹には心苦しかったのですが、成長を認められたというのは嬉しいことでした。
「うん、ありがとう。」
 妹はすぐに恥ずかしくなって付け加えます。
「でも、まだ何ができるかはわからないけれど。」
 兄は妹の頭を撫でました。
「すぐにでも見つかるよ。ぼくも協力するしね。」
 妹は笑って言いました。
「昔みたいに、またお兄ちゃんとお日様が昇るところを見てみたいな……。」

「だから都の上空の暗雲を追い払うことにした。考えていたのだが、これでぼくもおまえとの約束を果たすことになるだろう。」
 兄の目にはあの深紅の牛が映っています。
「なるほど……。確かにその通りだが……。」
「が? 何かあるのか?」
 兄が尋ねました。
「いや、そなたはわかっているのだな? 王としても最後まで務めを果たさなければならないということを。」
 深紅の牛が確認します。兄はさすがにしばらく考え込みましたが、やがて納得したような表情を浮かべ、そして吹っ切れたように言いました。
「もちろん。」
「そうか、わかった。ならば互いに約束を果たそう。時を待つがよい。」
 その言葉を残して、深紅の牛の姿は虚空にすっと消えたのです。

二、

「ですから、都の上空の暗雲を追い払い、水晶の都に太陽の恵みを降り注がせてみせましょう。神術の場所に教会を提供し、また奇跡の材料として籠三杯の水晶を用意してくださり、私に対する報酬としてさらに籠七杯の水晶を与えてくださるならば。」
 長い説明の締めくくりとして、深紅の法衣に身を纏った神官を名乗る男が述べました。水晶の都では、月に一度、外の国からの客人を招き、誓願を受ける催しがあるのですが、そこで、常夜の都に朝をもたらしてみせる、と確約する者が現れたのです。
「嘘を申せ。水晶だけを受け取り、逃げ出すつもりであろう!」
 宮廷貴族の一人が突然、激怒したように立ち上がりました。深紅の神官は苦笑いしながら答えます。
「お話を聞いていただけなかったのですか? 材料は国の外に持ち出すわけではありませんし、報酬は事後でけっこうと申したでありましょう? もし、我が神術が効果を為さなければ、当然ながら何もいただきません。材料もすべてお返しします。いや、お怒りであれば、我が首を差し出しても構いません。」
 神官は自信たっぷりです。
「余興とお考えくださっても結構です。ただ、都の朝に、籠十杯分の水晶を費やす価値があるかどうか、そこだけ思慮していただきたいのですよ。」
 けれども、廷臣たちは一様に疑念を抱いていました。
「しかし、教会を空ける必要もあると言います。一度許せば次から次へと怪しいものたちが押し寄せてくるのではないでしょうか。そんな輩と一々付き合っていれば、宮廷の権威に関わるものと思われます。」
 代表して、例の王室顧問が立ち上がり、王に意見しました。廷臣たちも王を注視します。外の国からの王ということで、いま神官を苦々しく見つめている宮廷占術師を筆頭に、随分と反対もあったのですが、その後の王の賢明な働きは尊敬を集め、少なくとも表立って王に刃向かうものはいなくなっていました。
 若き王は、内心を押し隠して頷き、神官に対して丁寧に問いかけました。
「残念ながら、準備が或る以上、如何に事後報酬といえども、やはり試すには信用が必要なのです。失礼ながら、神官殿の神術の力を試すわけには参りませんか? ここで我々を説得するような奇跡を見せていただけるなら、大事を任せる根拠となりましょう。」
 王の発言に対して、一同はなるほどと神官を見つめました。深紅の神官は少し真剣な表情で両手を広げます。
「そう言われるであろうことは予想しておりました。いいでしょう、我が神術の片鱗をご覧あれ……!」

 水晶の都は一つの噂で持ちきりでした。何でも、宮廷に現れた徳の高い神官が、水晶の都の上空に常駐する黒い雲を追い払い、日光の恵みを取り戻すというのです。
「本当にこの暗雲を打ち払うことができるのでしょうか?」
「あの話を聞いていませんの? 素晴らしい奇跡が本当なら、きっとどんなことだってできることでしょう。」
「この水晶の都が陽光に照らされて如何に美しく目映く輝くか、その朝が楽しみですわ。」
「ええ、もしかしたら目に悪いくらいかもしれません。墨硝子の眼鏡でも用意させておきましょう。」
 侍女たちの話を聞きながら、今や王女としての気品を保ちつつ、妹は期待に胸を膨らませていました。
(例えばお花を育ててみるというのはどうだろう。水晶の都は宝石で埋め尽くされているけど、お日様の恵みをいっぱいに受けて育った花ならば、宝石の美しさにも劣らないだろうから。これまで、どこにも庭園なんかなかったけれど、都に新しく造ることだってできるはず。)
 妹が思い描いていたのは、兄と父と遊んだ、故郷の屋敷の庭でした。当たり前のように過ごしていた場所ですが、こうしていっさいの植物の育たない、常夜の都に来ると、あの庭こそが屋敷の素晴らしいところだったように思えるのです。
(そういえば、水晶の都には子供たちの笑い声があまり響かないような気がするわ。)
 妹は、自覚はありませんでしたが、既に自分を子供だとは考えていないのでした。

 王となった兄の前には、一人の占術師がおりました。
「陛下、警告を申し上げます。例の神官は即刻国外に追放すべきです。」
 彼は、王の即位に猛反対した反王派の急先鋒の一人でしたから、多数派の親王派は苦々しげな表情を浮かべています。
「占いに出ているのです。水晶の都は氷の城のようなもの。栄華は一定の条件のもとでしか続かないものなのだと。上空の暗雲はむしろ都を守っておるのです。もしも剥き出しの青空が現れることとなれば、都は真夏の陽光の下に曝された一塊の氷にも等しい。すなわち、たちまちのうちに溶けてなくなってしまうことでしょう。……そんなお告げを受けたのです。」
 彼は彼なりに懸命に諭していました。
「何をおっしゃる……。都の水晶は氷ではありません。日差しを浴びても溶けるようなことはありえないのですよ。」
 廷臣たちは笑いました。
「神官殿が貴方の力で成し得ないことをできるからといって嫉妬は醜いですよ。」
 そう囁く者すらいます。
「いや、彼によれば神術は成功するのでしょう? むしろ吉凶ではありませんか。」
 馬鹿にするように笑い声を上げる者もいます。
 占術師は自分の言葉が聞き入れられることはないと悟って押し黙ります。そして、新しい王を睨みました。占術師は、外の世界の王が水晶の都に滅びを招く、そう信じているのですから。
 王は、彼の懸念を察しているのですが、無言のままでした。

「見てごらん、まさに手が届きそうなくらいの満天の星空だ……。」
 水晶の都、水晶の城の最上階で、王たる兄は王女たる妹に話しかけました。
「そうだね。今や都は天に接しているのね。」
 神官は約束通り奇跡をもたらしました。水晶の都は、そう、今や天に直接接しているのでした。兄妹は星空の下、美しい水晶の都を眺めていました。あと数刻で夜は明け、水晶の都に遂に朝が訪れるのです。
 妹は手元の墨硝子で出来た眼鏡を弄びました。眼鏡を持っているのは彼女だけではありません。今頃、都中の人に支給されているはずです。目が潰れてしまわないように、余りにも眩しいときはすぐに眼鏡をかけるよう、お触れが出ています。
「思い出すよね? 昔、屋敷の屋根の上に登って、星空とか日の出とかをよく見物したものだよね。」
 兄は、この前の妹の願いを叶えてくれるつもりなのでしょう。妹は感激して答えます。
「うん。」
 あの頃の妹は、一人では屋根に登れないし、実は少し怖かったので、兄にせかされ、それから引き上げてもらっていたのでした。父には必ず怒られましたが、半ば諦めていて、苦笑しながらも降りてくる二人を抱き留めてくれたものです。
 兄は思い出に浸っていました。今も、兄が王座に就いたからこそ、妹はここに立っているのでしたが、しかし、太陽を伴う朝を待っているのは、妹の方から望んだことなのでした。
(きっとこれから見る水晶の都の夜明けは、生涯忘れ得ぬ思い出になるだろう……。)
 兄妹は二人とも、そう考えていました。それで、お互い顔を見合わせては、少し照れて恥ずかしそうに笑い、日の出まで待ち続けたのです。

 水晶の都は、太陽の光を受けて地平線の彼方まで燦然と輝きを放ちます。深紅の神官はすぐに姿を消しましたが、それほど気にする人はいませんでした。ただ、祝辞を述べたかったのに少し気がはやい、と思ったくらいです。水晶の都は喜びに包まれました。
 たいへんな驚きの波が押し寄せたのは、水晶の都の近隣諸国でした。瞬く間に、水晶の都の絢爛さは世界に轟きます。水晶をはじめとする数々の財宝で彩られた、栄華を極める地上の富の結晶たる都は、これまで暗雲に隠されて余り知られていなかったこともあり、あらゆる人々の興味を駆り立てたのです。一生に一度でよいから水晶の都を訪れてみたいものだ、多くの人はそう思って、旅人や商人たちに都の土産話を無邪気にせがむのでした。
 しかしながら、世の中にはただ善人だけがいるのではありません。財宝があるならばそれを根こそぎ奪ってやる、という悪人たちもまた、水晶の都の話を聞きつけたのです。さらに厄介なことに、悪人たちは賊を為して人々の間に隠れているだけではないのです。
 強大な軍事力を誇り、あらゆる国を滅ぼしその領土を拡大してきた、とある帝国の皇帝もまた、水晶の都の噂を知りました。兵隊を出し、水晶の都に行ったことのある商人を集め、事の真偽まで確認したのです。
「どうやら、我が版図に加わる価値のある国が、まだ地上に残っていたらしい。」
 皇帝はほくそ笑み、すぐに将軍たちに号令をかけました。
「水晶の都に攻め込め。」
 それから少しその口髭を撫でると、珍しく第二の命令を追加しました。
「できれば降伏させ、無傷なままの財宝をここへ。」

 それは圧倒的な大軍でした。帝国の兵が都を幾層にも取り囲み、鋼鉄の武器が煌めきます。ですが、その煌めきも水晶の都の輝きには敵いません。その日はたまたま曇りがちの日だったのですが、それでも、まさに光を帯びたように都が浮き上がって見えるのでした。
「まさに富の結晶だな……。」
 将軍の一人は呻きます。余りの美しさに破壊するのが忍びない想いでした。ですが、皇帝陛下の命令は絶対です。水晶を奪い取り、帝都に持ち帰らなければなりません。
「降伏勧告の使者を派遣しましょう。」
 副官の一人が確認しました。将軍は許可を下し、そしてできれば受け入れてもらいたいものだと思いました。

「戦っても勝ち目はないでしょうね。わかりました、水晶はすべて渡しましょう。民には抵抗させません。その代わり、誰にも、傷一つ付けないと約束してください。……もし約束に反するならば、我々は自らの手ですべての財宝を打ち砕くでしょう。」
 王は帝国の将軍と契約を交わしました。相手も了解し、住民たちは、身の安全だけは保証され、無念の思いを噛み殺しながら帝国兵の略奪を見逃すことになります。
「ああ、水晶の都が崩壊していく。黒雲を払ったことで、水晶の都に欲望の視線が注がれるようになったのだ。氷を溶かす灼熱とは、そういったものたちの貪欲さだったのか。」
 廷臣たちはやっと占術師の予言の含意に気付きましたが、もう遅いのでした。帝国の軍人たちが、宮殿から、教会から、家々から、至るところから水晶の壁や床を剥がして、次々に運び去っていっているのです。
「水晶の都が滅び去ってしまう……」
 誰もが呟きました。そうです、水晶を剥がされた都は、もはや『水晶の都』とは呼べないのですから。それでも、誰一人として抵抗に立ち上がることはありません。王の布告もありましたし、また、そんなことをしても無駄だろうとわかりきっていたからです。いや、いつも与えられることに慣れきっていた都の民は、はじめてものを奪われることに直面して、為す術を知らないのでした。

「占術師殿の警告が正しかったということだ。」
 王が廷臣たちに語りかけました。とはいえ、彼らも一様に神官に儀式を行わせることには賛同していましたから、そう強くは責められません。当の占術師も、水晶の都が失われたことが大きな衝撃だったようで、呆然としているばかりでした。
「私が責任を負う。私は退位し、玉座から退こう。」
 さらに、王が続けます。
「既に富は失われたのだ。後継者は王家に連なるものでなくてもいいだろう。宮廷の協議で新王家を定めるがよかろう。」
 廷臣たちは驚いたものの、何も反応できませんでした。外の国から来た新王の即位、民の唯一の懸念だった晴れることのない暗雲の除去、そして突然の侵略と水晶の都の崩壊……様々に目まぐるしく移りゆく出来事が、走馬燈のように巡るだけなのです。
 王は玉座の脇に使える小姓に王冠を押しつけると、押し黙ったままの廷臣たちに間をすり抜けて王の間から去っていきます。王室顧問だけが唇を噛みしめ、兄に向かって深々と頭を下げました。

「お兄ちゃん……。」
 兄妹は今、再び城の最上階で都を見渡していました。眼下に広がるのはもはや水晶の都ではありません。都の建築物からは水晶が剥ぎ取られ、その下の煉瓦が露わになっています。
 頭上に広がる青空は彼方の方から赤く染まりはじめ、都にはやがて夜が訪れるでしょう。太陽が沈めば、都は悲観に暮れる溜息で満たされるかもしれません。暗雲を払ったことによる太陽の恩恵が、一時的とはいえ無くなり、ただ水晶を失ったという損失だけが強く感じられるでしょうから。
 星や月の光が都の民の眼に届けばよいのに。水晶の輝きだけがこの世の美ではないのに。そう思いながらも、妹は居心地悪げな視線をちらちらと兄に向けてきます。兄は苦笑し、妹の肩をぽんと叩きました。
「とりあえず望み通り太陽は取り戻した。これは王として立派な偉業だったはずだ。」
 兄は胸を張っているようです。妹はこくんと頷きます。
「まあ確かに水晶は失ってしまった。世の中、一つ望みを叶えれば、代償として失うものもあるということだね。」
 兄は続けましたが、どこにも悲しそうな様子はありません。
「水晶は都に住む人誰もが失ったものだけれど、お兄ちゃんだけが失ったものもあるのでしょう?」
 妹はなお責任を感じていました。
「王冠のことか? おまえだけに正直に告白すると、ぼくはもともと、玉座に就くべきではなかったのだよ。」
 妹は兄の言葉をじっとしたまま受け止めていましたが、やがて納得したように答えました。
「うん……。私も最後まで王女様というつもりはなかったけど。」
 商人としての生家を思い起こし、妹は頷きます。
「それに、ぼくだけが取り戻せたものもあったのだから。」
 兄は妹の手を取って、城の上の空に向けました。空の色はもう変わり初めていました。妹は一瞬驚いたようでしたが、すぐにわかって微笑みを取り戻しました。
「そうだね、ありがとう。少なくても私は、お兄ちゃんのしたことに感謝しているよ。」
 そんな妹を見て、兄は言おうとしていた言葉を内心に留めます。
(ぼくではなく、深紅の牛の仕事だったんだけどね。それにね、水晶の都は、約束通りにその富を失ったんだよ。だって、血族に連ならぬものを玉座に迎えたのだから。)
 代わりに兄は別の言葉を発しました。今度は兄が尋ねる番だったからです。
「これから、どうする?」
「そうね……。その前に……わたし、父さんを亡くしたときは、自分が世界で一番不幸な女の子だと思っていたわ。」
「うん。」
「でも、今は違う。そしてこれからも。」
「そうだね。」
 妹はちょっと迷ってから口を開きます。
「でも、もしかしたら、今度はこの都の人々が、自分たちを世界で一番不幸だと思っているかもしれない。」
 兄は苦笑しました。
「そうだろうよ。」
 妹も気付いて苦笑しましたが、もう罪悪感はありません。妹の言葉は続きます。
「でも、それは違うのよ。そうだと考えてしまうのは、奪われた水晶の幻しか見えていないからだと思う。太陽とか月とか星々の光が見えていないのよ。」
 妹は恥ずかしそうに空を見上げました。見事な夕焼けを迎えつつあります。
「わたしにも、都の人たちが本当の意味で太陽を取り戻せるように、何かできると思うの。」
「なるほどね。」
「例えば草花を育てたりすれば。そうしたら、みんな気付くんじゃないかしら。水晶だけが綺麗なんじゃないんだって。」
「わかった……。」
 兄は微笑んで、そっと妹の頬を手で触れました。妹も、はにかむような微笑みを浮かべ、夕日に染まった都に向かいます。水晶の都は暗黒の呪縛から解放され、妹もまた、生きる目的を見つけたようです。
(これでぼくの約束は果たしたな。)
 あたりは真っ赤に染まり、都の彼方に宝石のように深紅なる夕日が沈みます。その美しさに、都中の人がすべてを忘れて見入りました。妹も束の間気を取られ、王であった兄の体が、一瞬だけ夕日に負けないくらいの赤い輝きを放ったことには気付きませんでした。
(ああ、私もそなたも約束を果たした……。)
 人知れず、兄の掌から飛び出した何かが、太陽を追って地平線の向こうに飛んでいきます。
「明日は、そうだな、薔薇のように美しい朝日が昇るかもしれない。」
 兄が目を細めると、妹も「きっとそうね。」と微笑みました。

【終】

著作・制作/永施 誠
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