Stardust Crown
初版:2003-05-31
「ここね。」
オルシアがウェルスに確認した。二人は、貧民街に足を運んでいたが、そこには似つかわしくないような立派な建物の前に立っている。街の貴族が建設した孤児院である。先の新月の夜に命を落とした少女は、この孤児院の子だったのだ。隊長には《白い獣》の調査許可も申請したのだが、そちらは却下された。かわりに《黒い獣》の出た孤児院と話を付けて、面会の約束を取り付けてくれたのである。
ウェルスは特に何も言わずに頷いただけで、建物の様子をじっと観察していた。煉瓦造りの三階建ての建物で、正面の玄関の上には、巣の雛に餌を運ぶ大瑠璃の彫刻が飾られているのが印象的である。
「大瑠璃か……」
大瑠璃は、託卵された別種の鳥を育ててしまうことでも知られる、美しい声の野鳥である。ウェルスは皮肉な笑みを浮かべてさらに建物を見上げた。森をあしらったのだろうか、柱には葉のレリーフなどが施されている。煉瓦はいずれも昔からのもので、だいたいがくすんだ茶色であった。また、各階には狭い窓が幾つか付いていたが、いずれも黒の鉄格子がはめ込まれていて、外からも中からも、侵入は難しそうである。
「治安のためかしら。頑丈そうな造りね。」
オルシアが感想を述べた。実は、これまで常軌を逸した人間の仕業の可能性も考慮していたのだが、この建物を見て、考えを改める必要があると思った……。
「人間の仕業だとすると、内部に入り込める者が疑わしいかもしれん。単なる孤児を殺すために、わざわざ困難に挑戦することはないだろうから。いずれにせよ、セシルが選ばれた理由を考えなければならない。」
ウェルスが述べる。セシルというのは、殺された少女の名前である。
「そうね。」
オルシアは答え、二人は孤児院の門を敲いた。やはり鉄製の頑丈な扉だ。昼だからか開いていたのだが、礼儀として来訪を知らせたのだ。夜になると閉められ、内側から閂が掛けられるだろう。
やがて、向こうから修道女が迎えに来た。
二人は、すぐに院長室に案内された。警吏隊のものが来るとは聞いていたが、紺青の制服を纏うような階級が直々に捜査に出向いたことに驚いたのかもしれない。応対する院長もどこか硬いようなところがあるが、あんな事件の後だから、むしろそちらが原因と考えるべきだろうか。
「亡くなったセシルに心から哀悼の意を表します。その清き魂が天国に導かれることを信じ、我々も彼女の安らかな眠りをお祈りします。」
二人は頭を下げ、しばし黙祷した。
「セシルの犠牲を無駄にしないためにも、この度の事件を精査したいのですが……。」
ウェルスが切り出すと、院長も頭を下げた。オルシアよりも頭二つ分くらい背の低い、少し痩せた女性だったが、どことなく温かみあふれる人だ。赴任してから三十年くらいになるということで、髪の毛にはだいぶ白いものが混じっている。迎えに来た修道女と同じ、くすんだ小豆色の修道衣を着込んでいたが、院長の証として、少し大きめの聖印を首から吊り下げていた。
院長は、ぽつりぽつりと詳細を語りはじめる。
「セシルは……人見知りはするものの、うち解けると明るい笑顔を見せてくれる子でした。引き取られたのが最近だったので、確かに大人を警戒したりするようなところがあったのですが、基本的には素直で、何よりも年下の子に対する優しさに恵まれていました。」
「字の読み書きは苦手でしたが、計算はずいぶんと得意な子でした。教室の中でも一二を争うくらいで、商家から引き取りの話があって、既に何度か面会した後だったのです……。」
「あの夜は寄付の衣類が届いた後で、セシルにはそれはそれはぴったりの赤いワンピースが割り当てられて……。それでとても喜んでいた直後だったのに……。」
「字の読みとりが苦手といっても、真摯な努力を惜しまない子でした。寄付を受けた本、確か『籠一杯の林檎』というお伽噺を気に入って、何度も繰り返して読んであげたことを思い出します。」
思い出を交えて長く語ってくれる。事件当夜とその前の状況を尋ねると、院長は答えた。
「もちろん、流行病で亡くなった子や、具合の悪い子もいましたが、それ以外では特に最近に変わったことはありません。不審な人が目撃されたという話もありませんが、場所が場所ですから……。」
「なにものかの叫び声がしたという噂がありますが、院長は耳にしましたか?」
「いいえ。私は叫び声の類など聞いておりませんし、他の修道女からもそんな報告は受けておりません。」
ウェルスとオルシアは顔を見合わせる。院長はさらに、物音一つなかったと話し、セシルを殺したのは人外の怪物だと示唆して、そのうちに次のようなことも言った。
「本当にこんなことになって。流行病の欠員のせいで、セシルがいたのはその晩だけ一人部屋になっていたのです……。私たちでさえそうなのですから、子供たちもとても動揺しています。早く解決するといいのですが、相手が人間でなければ、私たちには祈ることしかできません。」
ウェルスとオルシアは黙って聞いていた。
「病と同じで、試練として受け止めるべきなのでしょうけれど、小さな身には重すぎるのではないか、私たちに支えられるかどうか心配でたまりません。当院の建設主のアフディッカス家からもまた援助を頂いたのですが……。」
そこで、ウェルスがゆっくりと確認を取った。
「この孤児院は、アフディッカス家によって建造されたものだったのですか。」
「はい、その通りです。」
答える院長の目頭には、いつの間にか涙が浮かんでいた。オルシアには、ウェルスが念を押した理由がわかった。実は《白い獣》に救われた少女がアフディッカス家の令嬢だったのだ。だが、これはここで詮索すべきことではないだろう。
「アフディッカス家には幸運の獣が訪れたようで、その庇護にあるこの院にも、良い流れがもたらされることをお祈りいたします。」
ウェルスとオルシアは挨拶をして、二人は院長室を退出する。
それから、念のため他の修道女にも話を聞いたが、大筋は院長と同じ話であった。ただし、院の要請もあったし、事件当夜に同室にいたものがいなかったということで、子供からの聞き取りは行わないことと決め、ウェルスとオルシアは孤児院を後にした。
リーグンは、赤いシャツを手に貧民街を駆け抜けようとしていた。捨ててしまったシャツだが、もとの路地でまた拾ってきたのだ。もうなくなってしまったかと、ほとんど諦めていたのだが、例の噂のせいか放置されたままだった。二度と手にすることはないかと思っていたけれども、プルスが街を離れることになったと聞き、ならば《黒い獣》を心配する必要はないだろうから、彼に渡すつもりで取り戻してきたのである。
全力で帰るつもりだったリーグンだが、孤児院のある通りに差し掛かったとき、紺青の制服姿の二人連れを見てぎょっとして思わず立ち止まってしまう。何しろ、警吏隊の連中には悪い印象しかないのに、よりによってお偉いさんを目にすることになったからだ。さらに運の悪いことに、相手方もこちらに気付いて声をかけてきた。
「そこの赤い布を持った君、ちょっと待ちなさい。」
一瞬、走って逃げようかと思ったが、そうすればかえって追われることになるだろう、そう経験が教えたので、リーグンは観念して二人連れを待った。悪いことはしていないのだから、怪しまれないようにしなければならない。
もちろん、二人連れとはウェルスとオルシアである。リーグンは彼らに目を向ける。階級の割にはだいぶ若いというのが第一印象だ。恐らく、親が偉いのだろう。優秀だという可能性もある。それから、片方が女であることに驚く。警吏隊は男ばかりで構成されていると思っていた。こちらも親が偉くて、ついでに本人が変わった志向なのかもしれない。
リーグンは孤児院の建物の脇に連れられて、そこで話をさせられることになった。ウェルスがどう切り出すべきか考えているうちに、オルシアが、少年の握りしめる赤い布が気になっていたこともあり、間を取るつもりで先に口を開く。
「その赤い布は? シャツよね?」
リーグンは慌てた。もしかしたら盗みだと誤解されたのかもしれない、そう判断したのだ。
「ぼくのです。盗んだわけじゃありませんから。」
オルシアは、しゃがみこんで自分の顔を少年の目線に合わせると、ちょっと笑って謝った。
「ごめんね。別に疑っているわけじゃないの。ただ目にとまったから話を聞いてみようと思っただけよ。どこにも連れて行ったりしないから、安心して。」
ウェルスは黙ってリーグンを見つめていた。《黒い獣》についてどう切り出そうかと考えていたのだが、別のことに気を取られてしまったのだ。それは、この少年は疑われることに慣れている、ということだった。普通なら、自分のものに対して、それが自分のものだとことさらに抗弁することはない。けれども、少年はすぐに所有権を主張し、そして盗みを否定した。こういう態度を取るものを、警吏隊の隊員は盗みをはたらいたものだと判断する。この仕組みは連鎖的に作用するのかもしれない、余計なことを考えたのである。
「第一、今は赤い服を着ようなんて者はいません。そんな奴は《黒い獣》に喰われてしまいますから。」
リーグンは、男の方は納得していないのかもしれない、と思ってさらに続けた。実は彼は、必ずしも赤い服と《黒い獣》との結び付きを確信しているわけではなかったのだが。信じている振りをした方が納得してもらえるだろう、という判断である。そして、この発言がウェルスの注意を引き戻した。
「ほう? 赤い服が《黒い獣》を招くと?」
オルシアも少し驚いた。確かにセシルは死んだ夜に赤い服を着ていたと聞いたが、噂の広まりは予測できないものだ。懸命に頷くリーグンに対して、どちらかというと単純な好奇心を抱き、ウェルスは続けた。
「では、なぜ君は赤いシャツを持っているのかな? どこかに運ぼうとしていたようだが……。」
とはいえ、頭の大部分は、赤い服と《黒い獣》との関係を検討している。思いもよらない発想だったからだ。
「友達にあげるんです。といっても、友達はこの街を離れるんで《黒い獣》を心配することはないんです。」
リーグンは正直なところを答えればよかった。
「そうだったの。心配をかけてごめんね。ところで、どうして《黒い獣》が赤い服の子を襲うと思うの?」
オルシアが聞いた。それでリーグンは、遅ればせながら二人が《黒い獣》の調査に赴いていると思い当たったのだった。なるほど、それなら確かに、身分の高い人が担当するのかもしれない。
だから、リーグンは出来る限りの協力をすることに決めた。
「よくわからないけど、死んだ女の子が赤い服を着ていたんだって。それでみんなそう言っているんだと思います。」
さらにリーグンは続ける。
「ぼくはこれ以上何も知らないんですが、《黒い獣》の影を見たという人のことなら知っています。それと、叫び声を聞いたという人ならもっとたくさんいます。案内しましょうか?」
ウェルスはオルシアと顔を見合わせ、頭の回転の速さに感心して微笑むと、少年に対して答えた。
「宜しく頼む。私はウェルス、こっちはオルシアという。そして君の名前は?」
「どう思う?」
オルシアは途方にくれてウェルスに目をやる。二人は、リーグンに連れられて貧民街を歩き回り、《黒い獣》の噂をかなり収集した。しかし、それらにはまるで整合性が認められないのだ。
あるものは星空全体を覆うような影を見たと話し、あるものは通りを飛び跳ねる影は兎ほどの大きさしかなかったと話す。あるものが《黒い獣》の叫び声は一晩中続く耳をつんざくほどのものだったと語れば、あるものが真夜中を過ぎたあたりの一際鋭い遠吠えの一声のみだったと対抗するのだ。
とりあえず一通り書き付けておいたのだが、どれもばらばらで、結局あの新月の夜に何が起きたのかは皆目検討もつかない。
二人は、もう警吏隊の本部に戻っているのだが、机の上には、そういった紙切れが散らかっていた。ウェルスは、その走り書きを揃えている。彼は、それらをもう一度ぱらぱらと捲ると、結局こう答えた。
「《黒い獣》に関しては全くわからない。だが、どうやら人間の仕業ではないかもしれないな。様々な目撃談があるが、人影を見たというものは一人もいない。」
オルシアは確かにそうだと気付いたが、それは、早い段階で人間が犯人であるという可能性を排除していたこともあった。
「じゃあどうするの? もう手を引くしかないの?」
オルシアは悔しげに言う。残念ながら、相手が人間でないとなれば、自分たちにできることはほとんどない。しかし、リーグンの不安げな表情を思い出すと、何とか力になれないものか、そう考えてしまうのだ。
ウェルスはその様子に気付いて苦笑した。
「あの少年のことなら《黒い獣》の対処のことよりも、むしろ衣食住を与えることが先決かもしれないぞ。」
リーグンには、別れ際に一週間の平均的な稼ぎを聞き(驚くほど少なかった)、その十倍の金を渡したが、そんな小銭はすぐになくなるものだし、このまま生活していけるのか疑問ではあった。もっともウェルスは、少年はこれまで生きてきたのだから、意外に逞しいのかもしれない、これからも生きるだろう、と判断していたが。
「怪物だとか魔法だとかの専門家を捜すか。あるいは、何とかして《白い獣》との関連性に糸口を探るか。」
ウェルスは思案した。彼とて、正体のわからない化け物にどう対処すればよいのか、検討もつかなかったのだ。
一方で、オルシアの方は、ウェルスの忠告を真剣に受け止めていた。方針も立たない事件を考えるよりは、より身近で対処できる問題に当たるべき、確かにその通りだと思ったのだ。あの少年のために、自分にも何かできるかもしれないではないか。これまで、貧しい故に事件に関わった者たちに、就職の世話をしたりしたことならあったが、貧民街の様子を直接観察したのは初めてだったので、少なからず衝撃を受けていたのである。すごく幼いリーグンが、同じ人間とは思えない暮らしぶりを送っていたから。
プルーリック家のアンジェラの部屋には、新しい絵が飾られていた。森の道から姿を見せる、空の籠を背負う母を、家の玄関に立つ娘が迎えているというものだ。アフディッカス家の令嬢の部屋に備えられていた品で、プルーリック郷が頼み込んで借り受けたものである。もともと、プルーリック家がはじめてもらい受けた貴族の娘がアフディッカス家の出身だったから、何とか話をつけることができたのだ。ちなみに、青磁にちなんだ青のカーテン類は、すべて薄紅色のものに取り替えられている。
奥方は《白い獣》の噂をできる限り集め、《白い獣》が来訪する望みを鮮明に抱くようになったのだ。奥方はまた、その過程で《黒い獣》の噂も知った。《白い獣》がアフディッカス家の令嬢を救ったという新月の夜、《黒い獣》がアフディッカス家の孤児院で少女を喰らったという話である。とはいえ奥方は、《黒い獣》がプルーリック家を襲うとは塵ほどにも思わない。
さて、部屋の模様替えがよい方向に働いたのか、あるいは奇跡のお裾分けなのか、アンジェラは久々にすやすやと眠っていた。そして奥方は、掛けられた絵に触発されて、娘の好きだった『籠一杯の林檎』を読んでいた。聞けば、この絵も本にちなんで描かれたものだという。
「お母さんは果実を集めに森に踏み入れ、もう何時間も歩き回っているのに、一向によさそうな果物は見つかりません。家では、病気の娘が甘い食べ物を待っていますのに。
そこへ白い鳥が降りてきてお母さんに告げました。『私は天の使いです。あなたにどんな病気でもたちまち治す林檎の実った樹を教えてあげましょう。』お母さんは白い鳥の後を追いました。ずっとずっと白い鳥に従って歩き続けました。そして遂に、これまで行ったこともない森の奥の広場に誘われ、黄金の林檎をたわわに実らせた木を見つけました。
お母さんは喜んで黄金の林檎を摘み始めました。籠一杯に集めると、白い鳥に言いました。『まあ、ありがとう。何て御礼を申し上げればよいのやら。』白い鳥は答えました。『私があなたにあげたものは何もありません。すべては天の贈り物なのです。だから、林檎を欲しがる人がいたら、あなたの娘さんに限らず分けておあげなさい。』」
万病を癒す黄金の林檎……、奥方は寝台に横たわる娘の手元に目を見遣った。そこには、赤瑪瑙と金のペンダントが握りしめられているはずだ。この本を読んだ後、たくさんの品物から、奥方が娘と二人で選び、アンジェラの誕生日の贈り物に買った装飾品である。さすがに奥方が社交界で身に付けるような逸品ではないが、それでも、子供の玩具という範疇を越える高価なものだった。
だが勿論、それが少しでも娘の心の拠り所となるのであれば、安い買い物だった、そう奥方は納得している。それにしても、黄金の林檎が本当に売っていたら、どんな大金を積んでも手に入れるものを。
奥方はぼんやりと本に視線を戻す。
「お母さんは白い鳥に別れを告げて来た道を引き返しました。すると、途中で一匹の狐が顔を出しました。『ああ、黄金の林檎だ。それさえあれば、うちの子狐が助かる。』お母さんは、頼まれる前に林檎を差し出します。『たくさんあるから、どうぞ一つお取りなさい。私も母親だから、あなたの気持ちはよくわかるのです。』」
奥方はいったん本を閉じて、娘との思い出に浸る。この後、母親は実に多くの動物たちと出会う。そう、森にはたくさんの生き物がいるのだ。アンジェラは、出てくる動物とその順番まで諳んじられるようになっていて、奥方は本を見てそれを確認したものだった。そうして、本の中の母親は、森の奥から引き返すうちに、一つずつでもたくさんの林檎を分けていったので、籠の林檎のほとんどを失ってしまう、そういう流れであった。
奥方は、本を抱えたまま心の中で暗唱する。
「白い鳥が再び姿を現して尋ねました。『まあ、あなたはなぜ悩んでいるのですか。林檎が半分になってもまだまだ元気だったではないですか。林檎が残り一ダースになってもまだまだ明るかったではないですか。それが残り三つになったからといってどうだと言うのです。与えられた仕事を迷わずにやり遂げなさい。』
お母さんは答えました。『林檎が半分になっても元気だったのは、まだ半分もあると思えばこそです。林檎が一ダースになっても明るかったのは、十二個の林檎なんて親子二人では食べきれないと考えればこそです。けれども、残り三つになってしまったら、三人に分ければ、もう娘の分はありません。それで悩んでいるのです。』
お母さんは続けました。『私は娘のために森に来たのです。娘のために林檎を摘んだのです。娘のためにこの道を歩いているのです。だから、娘のために、一つだけでも林檎を取っておいてはいけませんか。』お母さんは、籠を下ろしてもう一度林檎を数えました。一つ、二つ、三つ。黄金の林檎は、確かに残りあと三つになっていました。
けれども、白い鳥はこう言い残して飛び去ってしまいます。『いけません。神様の贈り物は、すべての生き物に平等に渡されるのです。そのためにあなたを選んだのですから。あなたは、出会ったすべての動物たちに、公平に林檎を配らなければなりません。籠の林檎は、もともとあなたのものではないのですよ。』」
当時でも、奥方には本の母親の気持ちがよくわかったが、そのとき、アンジェラは全く別の心配をしていた。
「たいへん。もし白い鳥さんの言葉を裏切ったら、このお母さんにもその娘さんにも、きっとよくないことが起きるわ。神様を信じて、迷いなく林檎を配らないと。」
そして奥方にこう問い詰めたのである。
「天の使いを裏切って持ってきたお土産なんて、それがどんなものでも嬉しいはずないのにね。どうして、このお母さんは子供の気持ちがわからないのかな。」
奥方はどう答えればよいのかわからなかったが、「あなたも大人になればわかるわ」とだけは言いたくなかったので、娘をぐっと抱き寄せると何とかこう言った。
「そうね。大人になると、子供のことばかり考えて、それで子供の本当の望みがわからなくなることがあるのよ。」
アンジェラは納得していなかったようだが、今もう一度この本を読んだらどう考えるだろうか。奥方は、もし自分が同じ立場に立つとしたら、白い鳥を裏切って、黄金の林檎を一つ、娘のために密かに隠しておくかもしれない、そう思った。
いや、今のアンジェラであってもきっとそれを許さないだろう。アンジェラならではの純真さのせいだ。そして、奥方は心の奥底で密かに考えていた。子供は物語の結末を予想してしまうからだ、と。
けれども奥方は、アンジェラの病状の行方を全く知らないのである。