フォルトパイレンの奇跡−第三章

初版:2003-05-31

目次

全体

  1. 第一章 フォルトパイレンの獣
  2. 第二章 籠一杯の林檎
  3. 第三章 獣と林檎
  4. 第四章 惨劇と奇跡と/終章

章内

  1. 3−1
  2. 3−2
  3. 3−3
  4. 3−4

第三章 獣と林檎

一、

 ウェルスとオルシアは、聞き込みを続けたり、部下に夜の街の巡回を命じるなどして捜査を続けた。しかし、《黒い獣》の正体はおろか、直接的な手がかりは何も得られない。
 この夜も、二人は図書館に籠もっていたが、古い本を引っ張り出して調べているのはオルシアのみで、ウェルスは腕組みをしたままで、もう諦めている様子だった。
「どうしたの?」
 副官が上官にわずかな怒りを見せると、彼は答えた。
「だめだ。大体、昔の本に記述があるとしたら、それが繰り返されるような事件だからだろう。今回がはじめて、というのであれば、図書館に来ても意味はない。」
 ウェルスから誘ったのに、とオルシアは少し不満を見せた。
「それはそうだけど……記述が見つからないと断言するのは、図書館中の本を全部ひっくり返してからじゃないと。」
 だが、ウェルスは別の目的があってここに来たのである。警吏隊本部では話せないような、別の方策を思いついたのだった。実は今日は図書館の休館日だったのだが、捜査に使うということで無理に開けさせたのである。鍵を借り受けてきたので、自分たち二人以外には誰もいない。
 ウェルスはもう一度辺りを見渡して、改めて人影のないことを確認すると、口を開いた。
「確かに他にできることもなければそうだろうが……。実は少し思いついたことがある。」
「何?」
 オルシアはウェルスの真剣な様子に気付いて、ぱたんと本を閉じた。ウェルスもそれを待ってから続ける。
「セシル、《黒い獣》に殺された少女と、《白い獣》に救われたという子供だが……。」
 ウェルスは、《白い獣》に救われたという子供の名を知っていたが、敢えて伏せる。前々から予想はしていたものの、これから口に出すことには十分な注意が必要だったからだ。
「性別、年齢、体格……、それらがほとんど一致する。そしてセシルはとても健康な子だったし、貧民街の出身で、その上まったく身寄りがない。」
「つまり?」
 オルシアは眉をひそめた。もちろん、ウェルスが含意したことはわかっていたし、前にもその推測は聞いていたのだが。ウェルスもそれを理解して、替わりにこう答えた。
「《黒い獣》がもし今後も姿を現すとしても、どこに現れるのかはわからない。しかし、《白い獣》が現れるところならば、もしかしたら予想できるかもしれない。」
 オルシアは黙ったままだ。
「実は、流行病に冒された貴族の子供、それも比較的に重体で、まだ生きている子はそれほど多くない。」
「貴族の子供たちを囮にするというの?」
 オルシアは少しウェルスを責めた。しかし、ウェルスは答える。
「何も屋敷に踏み込むわけではないから、子供たちの心を掻き乱すわけではない。それに、本当に神の奇跡があれば、我々が赴いたところでその御心が翻されるわけではないだろう。」
 ウェルスは言葉を続けた。オルシアはそれで別の確認をする。
「またあの夜のようなことが繰り返されるという確信があるの? もしも二つの獣に何の関係もなかったら? もしも《白い獣》を前にしたとして私たちに何かできるの?」
 ウェルスは頬杖をついて答えた。
「事件が続くという確信も、真相に迫れるという保証もない。相手の正体もわからずに何ができるかもわからない。」
 ウェルスは自分でも、何の裏付けもない、もしかしたら何の正義もない思いつきであるとはわかっていた。
「けれど、もしも天使を騙る悪魔の所業ならば、それこそ天が力を貸してくれるかもしれない。」
 懸念が真実であれば、黙認すること自体が罪になると考えたのである。本来ならば、任務上の義務しかない副官を付き合わせるべきではないのかもしれないが、実はオルシアも行動を取りたがっているとわかっていた。そして信頼があるからこそ、こうして彼女だけには打ち明けたのだ。
「そうかもね。」
 そしてオルシアはふっきれたように答えてくれた。

二、

 フォルトパイレンを満月が照らした。惨劇と奇跡の夜には大空から一旦姿を消していた月だったが、それから二週間、月の満ちる夜が来たのだ。

 《黒い獣》は獲物の少年をずっと遠くから見つめていた。
 獲物と見定められていることも知らず、少年は手元の赤いシャツを握りしめて、満月を見上げていた。時折、立ち上がってはゆったりと辺りを見渡すのだが、すぐにまた座り込む。何かを探しているというわけではない。夜の風景を記憶に刻み込もうとしているのだ。なぜなら、少年は明日、この街を離れるからである。
 《黒い獣》は獲物の少年に向かって歩きはじめた。少年はまだ、幾枚もの壁を隔てた向こうに居る。
 獲物の少年は赤いシャツに目を落とし、それからちょっとした罪悪感を覚えた。街を、いや頼ってくる弟分たちを見捨てる旅立ちであるからだ。弟分たちには、ちょっと出稼ぎに行ってきて、金を持って帰ってくると話して聞かせたが、勘の良い本当に小さい子たちはなかなか泣き止まなかった。一番目をかけていた賢い子が巧く言い聞かせてくれたので、しがみつくその手を離してくれたのだが。その賢い子は、兄貴分が二度と帰ってこないということを知っているらしい。それでいて、心から祝福してくれた。その子だけはこれまで自分を『兄貴』と呼ばなかったのだが、最後にそっと『兄貴』と声をかけてくれた。きちんと別れを告げてくれてありがとう、と。
 《黒い獣》はいよいよ獲物の少年からも見える距離まで近づいた。もっとも黒い身体は影に溶け込み、天上にある満月の光を浴びても、その姿が人の目に映ることはない。
 獲物の少年は、それでも希望に胸を膨らませている。街を出るのは生まれてはじめてだが、やはり新しい世界には可能性が待っていると信じた。そして、何と言っても、自分の親代わりになるという人が現れたのだから。少年の才覚を認めてくれたおかげだが、彼はさらに技能を磨いて恩返しをしたいと思っていた。拾ってくれる人に対してだけではなく、育ててくれた街、送り出してくれた人に対しても、である。決して楽な生活がはじまるわけではない、とは聞かされていたが、今よりも辛い暮らしになることはないだろう。
 《黒い獣》は遂に獲物に忍び寄った。まずは意識を奪う。とりあえず殺しはしない。殺してしまえば使命を果たしたことにならない。使命を果たしてから殺す。放っておいても死ぬが、それが慈悲なのかもしれないし、あるいは《黒い獣》の密かな楽しみなのかもしれない。
 獲物の少年は、養父となる人の言葉を反芻した。「現在の生活に満足してしまえば向上は見込めないが、今の幸せに感謝しないものの繁栄は長続きしない。」常に貧しさを脱する努力をしてきたが、これからは金持ちになるために働こう。「これまで無為に生きてきたのだろうが、これからは人の役に立つのだ。」その言葉通り、少年は生きるつもりだった。弟分たちの笑顔に安堵してきたが、これからは父となる人に……。
 そこで《黒い獣》が獲物に飛びかかった。

 その晩、貧民街の人々は恐ろしい叫び声を聞いた。それは潰された夢の最期の悲鳴だったのかもしれない。それで、幾人かの人は自分が黒い影を見たことを思い出すのである。

 《白い獣》は、契約に従ってその屋敷の前に姿を現した。獣の瞳には、屋敷の中までもが鮮明に映し出されている。目標の男子の居る寝室には、寄り添う夫人が落ち着かない様子を見せていた。ちらちらと窓の外とか扉の向こうとかの気配を伺う。何も知らないのは、今度は屋敷の主の方だったが、自分の寝室で眠りに陥っているようだった。
 《白い獣》はひらりと跳び上がった。そうすると、もうそこは寝室だ。男の子の寝台の脇、夫人の反対側に、ふわりと《白い獣》の体が浮かび上がる。
「ああ、遂に来てくれたのね。ぼうやをお願い。」
 夫人が立ち上がって涙声を上げた。彼女は、息子が救われると確信している。《白い獣》は男の子を見遣ったまま、ごうと乳白色の霧を吐き出す。辺りがぼんやりと曇り、そして立ち上がった夫人も意識を失い、ぺたりと椅子に倒れ込んだ……。

 明くる朝、とある貴族は夫人に叩き起こされた。ほとんどわけのわからないまま妻に引きずられて子供の寝室赴くと、そこには穏やかな寝顔を浮かべる息子があった。
 定期検診の数時間前に連れてこられた医者は、屋敷に奇跡が起きたと断言し、すぐに《白い獣》が現れたという噂が広がった。

三、

 リーグンは、赤いシャツと警吏隊からもらった金をプルスに渡そうとしたが、プルスは赤いシャツだけを受け取ったのだ。金よりは物の方が思い出になるから。それに、おまえの言う通り、街を離れる人間が赤い服を恐れることはないだろうから、と。
 だが、プルスの頼った人の出発が遅れてしまった。そしてその間、プルスは形見として渡された赤いシャツを捨てることもできず、いつでも持ち歩くしかなかった。すぐにでも引き取ってもらえるという話だったのだが、せめて街を離れるまでは弟分の世話をしたい、そう訴えて敢えて貧民街に残るのがプルスという人である。親代わりになる人は赤いシャツが危険だなんて知りもしなかったのだろうし、プルスの方も、他人に危険なものを預けるわけにはいかなかったのだ。そしてプルスは殺された。《黒い獣》に襲われて。
 少なくともリーグンはそう考え、兄貴分が死んだのは自分の責任だと後悔していた。自分を責める。余りにも落胆していて、いつのまにか目の前に紺青の制服があることにも全然気付かない。
「君だったのか……。」
 また事件があったと聞き、ウェルスたちは予定を急遽変更して貧民街に駆けつけていた。そして、被害者と親しかった者として、リーグンの名を聞いたのである。
「リーグン……。」
 オルシアは少年に呼びかけ、それからそっと彼を抱きしめる。リーグンは静かに泣き出す。
「リーグン……」
 ウェルスが話しかけたところ、オルシアはきっと顔だけで振り返った。
「今は止めておきましょう。」
 それから目を閉じて、しっかりとリーグンを包み込んだ。ウェルスは、実は出直してくると伝えるつもりだったのだが、それでも配慮が足りなかったと反省し、ぽつりとその場に立ち尽くす。何か助けになることをしたいのだが、何をすればよいのかわからなかったのだ。
 だがリーグンは、ひとしきり泣いた後でオルシアからそっと身を引き離す。
「どうもありがとうございます。」
 彼女に礼を言うその言葉は、まだ震えていた。それからウェルスに向かう。
「犯人を捕まえてくれとは言いません。でも、誰が兄…プルスを殺したのか、それだけは突き止めて、いや、少しでも何かの手がかりを集めてください。それを、ぼくにも教えてください、お願いします。」
 ウェルスは、その視線をじっと受け止める。彼は、警吏隊に入隊して以来、最も厳粛な気持ちになった。ウェルスはしゃがみこんで答える。
「それには君の協力が不可欠のようだ。話を聞かせてくれるね?」
 オルシアは立ち上がった。「無理をしなくてもいい」と言いたかったのだが、今は少年の気持ちに答えたい、と思う。リーグンもやはり立ち上がり、「ぼくのせいなんです」と泣き付きたい気持ちをぐっとこらえて話しはじめる。
「ぼくが最後にプルスと出会ったのは……」

四、

「聳え立つ巨人が轟くような声で脅しました。『黄金の林檎を』と。お母さんは怯えます。断れば潰されてすべての林檎を取り上げられてしまうのではないか。余りにも恐ろしくて、仕方なく林檎を渡します。
 ぜいぜいと苦しげに息をつく赤ん坊を抱えた女が哀願しました。『黄金の林檎を、どうか一つわけてくれませんか』と。お母さんは同情します。自分の娘もこんなに小さくて母を頼るしかないときがあった。余りにも不憫で、思わず林檎を渡します。
 そして、垢まみれの、贔屓目に見ても余り可愛くないであろう少年が言いました。『黄金の林檎が要るんだ』と。お母さんは悩みました。これが最後の林檎だったからです。そして、相手は怖いと思えるような風格でもありませんでしたし、また、共感できるような様子でもなかったからです。」

 プルーリックの奥方は、昼は教会に通い、夜は娘の寝台の側に付き添って、一日中、アンジェラの回復を祈っている。けれども、娘の容体は悪くなるばかりだった。
 また《白い獣》が現れたという噂は聞いた。しかし、その家はプルーリック家とは仲が良くなく、残念ながら詳しい状況を知ることはできないかもしれない。
 しかしながら、今日、警吏隊の副隊長が尋ねてくるという。何でも、フォルトパイレンの二匹の獣についての調査をしているのだが、アフディッカス家の聞き込みが断られたので、かわりにプルーリック家から話を聞きたいというのだ。プルーリック郷も断るつもりだったようだが、奥方がそれとなく受け入れるように誘導した。なぜなら、奥方も《黒い獣》と《白い獣》と繋がりの可能性に気付いたからだ。奥方は貧民街の様子などまるで想像もできないが、警吏隊の人間ならば、何か知っているかもしれない。それで少しでも糸口が掴めれば……そう考えたのである。

「アフディッカス家に現れた《白い獣》のことを詳しく伝え聞いているとか。」
 ウェルスが幾分か厳しい表情で尋ねる。奥方は、まずこちらから話さねばならないだろうと心構えをしていたので、相手の様子に注意を払うこともなく、すぐに答えた。
「ええ。何しろ、私どもにも娘がおりまして、同じ病を患っていますから、それでどうにかなるかもしれない、そう期待したのです。娘の寝室は《白い獣》が現れたというアフディッカス家のお嬢さんの部屋と同じ内装にしましたのよ。」
 それから、ほとんど参考にはなりそうもないと思いつつ、《白い獣》について伝え聞いた話を付け加える。ウェルスとオルシアはじっと耳を傾け、話が終わると願い出た。
「あの、もし宜しければお嬢様の寝室を見せていただけませんか。お嬢様に差し障りのないように、万全の注意を払いますので……。」
 オルシアが頼む。奥方は、これも予期していた頼みであったが、今度はやはり少し迷ってから、ゆっくりと頷いて了承する。
「それではご案内します。余り長居はできませんけれども。」
 二人は、わかりました、と答えて奥方に続いた。

 ウェルスとオルシアとは、カーテンの向こうで眠っている令嬢の邪魔にならないよう、何一つ言葉を交わすこともなく、じっとアンジェラの部屋を観察した。玩具、人形、本。それから、絵、カーテン……、細部まで記憶に刻もうと、ゆっくりと見渡す。奥方も口を開くことなく、そんな二人の様子を時折伺いながらも、注意の大半をカーテンの中のアンジェラに向けていた。
 ところが、奥方の思惑に反して、それまで眠っていたアンジェラがふと目を覚ましてしまう。アンジェラは、どういうわけか、起きたばかりなのに意識がはっきりとしていた。人の居る気配に気付き、母かと思って身を起こしてカーテンを開く。と、母もいたが、見知らぬ人たちも見える。紺青の制服を着ていた。少女にも、警吏隊のお兄さんとお姉さんだとわかった。アンジェラは、ぱっちりと目を開けて、二人を見遣る。
 奥方は慌てて説明する。
「アンジェラ、お見舞いよ。でも、寝ていていいのよ。」
 奥方は娘の寝台の側に歩み寄ったが、アンジェラは久しぶりに、『お見舞い』という言葉に、ぱっと笑顔を見せた。警吏隊には基本的に良い印象があって、知りもしないような他の退屈な大人よりもうれしかったのだ。
「そうなんだ。」
 アンジェラは興奮して、カーテンをからからと開くと、二人にぺこりと頭を下げた。ウェルスとオルシアもそれに応じる。実はウェルスは戸惑っていた。彼も令嬢が眠っている間に用を済ますつもりでいたからである。
「そうなのよ。」
 けれども、オルシアは臨機応変だった。というよりは、オルシアは令嬢の病状も気にしていたのである。やはり幼い命が危険にさらされていると思うと落ち着かない。何とか元気になってほしいという思いは当然抱いている。しかも、奥方の気高い人柄に触れていたから尚更であった。オルシアはアンジェラの側に体を寄せてから話した。
「私はオルシア、あなたはアンジェラというのね……」
 奥方は、オルシアと楽しそうに話しはじめるアンジェラを見つめながら、あまり疲れさせるようなことになってはならないとも心配している。しかし、当の娘は、最初こそ、会釈をしただけのウェルスにも注意を向けたりしていたものの、たちまちオルシアとの会話に夢中になっていった。
「いつもはどんなお仕事をしているの?」
「みんなを守るのが仕事だからね。困ったことがあった人の相談に乗ったり、喧嘩をしている人の仲裁をしたり、悪い人を捜したり、いろいろね。」
「昨日はどんなことをしたの?」
 オルシアは少し迷ったが、特に嘘をつくことはないと考えた。
「……アンジェラと同じくらいの子どもとお話をしていたわ。」
「どうして?」
「その子のお友達が……、不幸に巻き込まれて……。」
 アンジェラは、それだけで察することができたので、あまり深くは聞かなかった。
「オルシアさんは事件の解決に集中していればいいと思うよ。だって、その子のことは、お母さんとお父さんが一番に考えてくれるはずだから。」
 アンジェラはそこでにっこりと母に笑顔を向けた。しかしオルシアは、沈黙による嘘をつくこともできなかった。
「ううん、アンジェラ、その子にはお母さんもお父さんもいないのよ。」
 アンジェラは驚いた。オルシアはその手をしっかり握って付け加えた。
「でも大丈夫。すごく強い子だから、きっと元気になるわ。」
 オルシアは続ける。
「もちろん、死んだ友達のことを忘れるということではないけれど、それでも、いつまでも悲しんだままというわけにはいかないから。」
 母とはまた違う手に包まれて、アンジェラはしばらく思い悩んでしまう。その側で、奥方も同じ驚きに囚われていた。親と子との絆をずっと考え込んだときに、そのような現実もあることを突きつけられたからである。
 と、とんとんと肩を叩かれた。ウェルスが、この折に奥方と話そうと、彼女を部屋の外まで誘ったのだ。奥方は、少し気後れしながらも後に続く。
 アンジェラは母が離れることには気付いたが、そこで一つの決断を下し、それまでぎゅっと握りしめていたペンダントをオルシアに向かって掲げた。そう、林檎の形を象った母との思い出のペンダントである。

 一方、ウェルスは奥方に向けて語りはじめる。
「実は、私は《黒い獣》についてはほとんど知りませんし、《白い獣》についての知識は奥方に教えていただいたものが大半です。」
 ウェルスは正直に奥方に話す。彼は奥方が自分を招いた理由を推測していたからである。
「しかしながら、私から奥方に教えてさしあげられることがあります。」
「何ですの?」
 どちらかというとぼうっとしたまま奥方は尋ねる。ウェルスはきっぱりと強い調子で話しはじめる。
「私には子供はいませんから、本当の奥方の心情はわからないしょうが、それでもアンジェラさんを思うお気持ちを汲むことはできるつもりでいます。」
 娘の名前が出て、奥方ははっとウェルスを見つめた。ウェルスは続ける。
「ですから、奇跡を願う気持ちについては、その願いが天に通じることを、微力ながら私も祈っています。」
 奥方は、それだけで彼の言いたいことを悟った気がしたが、それでもしんみりと耳を傾けていた。ウェルスは敢えて続けた。
「しかしながら、犠牲の上に成り立つ救済を期待するようであってはならないと思います。月並みな言葉ではありますが、たとえ現在この世に生きていないとしても、自分の子供が犠牲になることを受け入れる親はいないでしょうから。」
 奥方は頷いた。その瞳は涙を湛えはじめた。ウェルスはさらに言う。
「私は奥方を非難するつもりはありませんし、またその資格もありません。肉親である以上、子供を救うためには、あらゆる考えを持ってしまうものでしょうし、決して振り払うことのできない感情かもしれませんから。けれども、これは警吏隊の一員としてではなく、犠牲になる側の人間も知る立場としてのお願いですが……」
 次の言葉は憶測からのものであるし、奥方に誤解を与える可能性もあったが、ウェルスは、やはり続けた。
「何らかの誘惑があったとしても、最終的にはそれを振り切ってください、必ず。」
 ウェルスには「お嬢さんのためにも」とは言えなかったのだが、奥方はしっかりと頷いた。その瞳から涙があふれ出し、白い頬を伝った。

第四章に続く

著作・制作/永施 誠
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