Stardust Crown
初版:2001-05-26
裸足に潤いを伝える草の道、爽やかな風に漂う春の香り、小鳥の囀りは優しく響き、頭上の木漏れ日が時折眩しい。
「もうすぐです。」
光を遮るように右手を翳しながら、ローファはマリウスに声をかけた。若い恋人たちは森の小道を歩いていた。昨日は小雨が降っていたので多少心配したが、雨雲は夜のうちに流されたようだ。穏やかな、初々しい朝。淡い緑の樹木の間には、柔らかに灰色の影が広がっている。
ローファは、彼の手を取ろうかと迷ったりもするのだが、どうしてもまだ躊躇いがあって、左手でぐっとサンダルを握り締めたまま、ゆっくりと歩き続けている。もう幸せをいっぱいに噛み締めているし、それに、やはり彼の方から手を取ってほしい、そう願っていたのだ。
マリウスの方は、ちょっとした戸惑いというか、気恥ずかしさみたいなものを覚えていて、ただ軽く頷くだけで、後はローファの背中を追うばかりだった。
ローファは、そんなマリウスのことが何だか妙に可愛く思えてしまう。
「マリウスさんって、何だか、時々可愛いですよね。」
ローファは悪戯っぽく問い掛けてみた。マリウスは一瞬ぎょっとしたが、すぐに平静を繕って答える。
「そう言われたのは始めてです。……どんなところがかわいいのでしょう?」
「え、ただ、何と、なく。」
やっとまともな会話になりそうだったのだけど、今度はローファの方が恥ずかしくなってしまった。
マリウスはもう二十、がっしりとした体格で、並んで立つと、そんなに小柄でもないローファよりも頭二つ分くらい背の高い大丈夫である。黒髪、黒の瞳、健康的な褐色の肌で、全体から力強さが漲っている感じだ。子供の頃から頑丈だったそうで、可愛らしいと言われたことがなかったとしても不思議ではない。古くからの将軍の家系でもあるし。
対するローファはもうすぐ十七になる。すらりとした手足に、緑がかった金髪、空色の瞳、柔らかな白い肌の華奢なつくりの娘だった。
また二人とも黙ってしまったが、それでも森の散歩は清々しく、とても良い雰囲気だった。周りの葉っぱから、時折ぽたぽたと澄んだ水滴が落ちてきて体にかかるが、そのひんやり加減は心地よいくらい。ローファが時々振り返って見ると、マリウスは遠慮がちながら微笑んで答えてくれる。
「あ、つきました。」
二人が目指していたのは森の泉。娘たちの間ではよく知られていて、恋人ができれば一緒に花を摘みに来てもらう場所でもある。泉は比較的広く、空からの日の光をいっぱいに受け入れいているので、鏡のように輝いていた。見ると、かなり離れたところだが、別の恋人たちが仲睦まじそうに肩を寄せ合って、まだ冷たい泉に足を浸していた。
「ここです。」
立ち止まるローファの傍らに、マリウスがすっと追いついた。
「綺麗な泉ですね。」
「はい。」
ローファは勇気を出して、そっとマリウスの手に触れた。マリウスは、少しだけ時間を置いたものの、ローファの手を優しく取ってくれた。澄み切った水面は、そんな二人を映し出している。水鏡を通して、二人は見詰め合った。
それから、ローファはマリウスと共にペスメア・リリーを摘んだ。この泉でしか見つからない百合の一種で、純白の大輪である。泉の周囲を彩るように生えていて、手にとると、甘いさっぱりとした匂いを発する。『誓われた愛』を表すというが、マリウスは知っているのだろうか。ローファは何回か尋ねてみようかと迷ったが、結局黙っておくことにした。
昼が近づく頃には、両手いっぱいの花束を抱えて、二人は来た道を戻って行く。泉を訪れる恋人たちも多く、しかも大抵はもっと大胆で、少し気恥ずかしい感じもした。ローファたちの場合、ちょっとの間、手を取り合っただけで、それ以上のことは特になかった。けれども、それで十分満足だと思う。
帰りの道でも最初はローファが先導していたが、しばらくしてマリウスから隣に並んで来た。マリウスは、十歩ほど歩いてから、ふうっと息を吐くと、静かに切り出す。
「ごめんね。」
ローファは反射的にしか答えられない。
「え、何がですか?」
マリウスはローファの顔を覗き込みながら、
「……花とかは、普通は男から女の人に贈るものでしょう。本当は、貴方に言われるまでもなく、ぼくの方で綺麗な花でも探して来るべきなんじゃないか。いつも、貴方から誘われてばかりだし……」
ローファは思わず声を立てて笑ってしまった。そして、マリウスの顔をきゅっと覗き返す。
「あやまらないでください!」
と、マリウスは屈みこんでいた背筋をぴっと伸ばした。それがおかしくて、ローファはまた笑ってしまう。
「わたしはとても楽しかったです。マリウスさんは楽しくなかったんですか?」
マリウスが慌てた様子を見せる。ローファは笑いを噛み殺して続けた。
「それに、もし本当にすまないと思うなら、今度会うときにでも黙って花束を渡してください。男の人は、やっぱり行動で示すものだと思いますよ。」
マリウスは若干情けない表情をしたが、すぐに苦笑いした。
「そうでした……。それなら、すぐにでもきっと。あ、この話は忘れてくださいね。貴方を驚かせた方がよいでしょうから。」
そうして、二人はいっしょに笑った。どちらからということもなく、また手に手を取り合う。木漏れ日はさらに眩しく、森を渡る風の軽やかな騒めきが心地よかった。
ペスメアソリスは、ゼファースト大陸南西部に位置する海に近い都市である。雄大で清らかなトゥリス河の側、豊かな森に囲まれた美しい街で、エルラントスを祭る大神殿には近隣からの巡礼者も多い。
貴族制の都市国家であるペスメアソリスを統治するのは、『七貴族』と呼ばれる元老院議員と将軍たちである。その下に、近くの港を拠点に貿易を営む九つの商家がある。
ローファは、ペスメアソリスの中でもかなり豊かな商家の、第三女として生まれた。形式的には七貴族の一つの傘下だが、半ば独立している。一方のマリウスは、七貴族の一門、イリシャール家の次男だった。
二人は、先の秋の収穫祭で知り合った。その祭りの最後に行われる闘技大会で、マリウスが十人抜きを演じ、ローファが一目惚れしたのである。踊るような、武を極めた人間だけの美しさを感じたのだ。多くの女たちがマリウスに色目を使ったが、マリウスは軽く会釈を返すだけだった。その中で、ローファだけが、大胆にも女の側から交際を求める。そうして、ローファの方が積極的になって二人の仲がはじまったのである。
どちらの家も、若い二人の仲を好意的に捉えているので、このまま順調に進めば婚礼も許されるだろう。自由な恋愛を許容するペスメアソリスにあっても、やはり恋愛が結婚に結びつく事例が少ないことを考えれば、これはたいへん恵まれていることだった。ただ、マリウスは、勇名を馳せているわりに女性には奥手のようで、二人の仲は今一進展していない。
さて、ローファはペスメアソリスに帰った後、そのまま神殿へと足を運んだ。本当はマリウスにも一緒に行ってもらうつもりだった。しかし、街の東門のところでイリシャール家の使いのものが待ち構えていたのだ。まあ、少しは残念であったが、緊急の用というから仕方ない。一緒に参拝するのは、次回まで取っておこうと思う。
街の南方にあるエルラントス大神殿は、青灰色の大理石で組み上げられた壮大なものだ。ペスメアソリスでも最大の建物である。
もうすぐ昼間ということもあって、ローファは、賑やかな庶民の街を抜けて行く。この活気がたまらなく好きだ。さらに、神殿の門付近でも、老人たちが陽気に話していた。ローファに気付いて、皺だらけの手を元気に振ってくれる。この平和な感じが微笑ましい。
それでも、見上げるような神殿の門を抜け、青々とした芝生の中庭を過ぎ、長い黄土色の廊下の先の、礼拝堂近くの神殿奥ともなると、冒し難い厳粛な空気が流れているようで、辺りは水を打ったように静まりかえっていた。ローファの気持ちもきりりとしてくる。
礼拝堂。天井高く虹のようなステンドグラスがはめ込まれ、この暗い神殿奥の部屋からも太陽が望める。色取り取りの光の帯が差し込んで来て、かび臭い中に舞い上がる埃を照らし出していた。ぐるりと囲む巨大な壁には、エルラントス神より伝えられし神話が真紅の絵の具で刻みこまれていて、神の時代と人の時代とを繋いでいる。そして、中央に厳かに安置されている巨大な像こそが、ペスメアソリスの守護神にして、大河トゥリスの神、エルラントスであった。翡翠の御神体は青緑色の気を放ち、ステンドグラスの照明の中に浮かび上がっている。
ローファは、持ってきた花を半分ほど捧げ、ひっそりと祈った。
(偉大なるエルラントスよ、都市に安泰を、家族に繁栄を、そしてマリウスとわたしとに祝福を……。)
ローファは始めこそすごく幸せな気持ちで祈りを捧げていたが、じっと眼を閉じているうちに、なぜか不安がもたげて来た。
自分はマリウスに夢中だが、相手はそうでもないような感じがしてきたのだ。今朝もそうだったのではないか。マリウスは、男のあるべき姿を常に意識している。いつも気を使ってくれるし優しいし、けれども、自分が期待しているものとは違う。ローファの理想は、お互いがお互いに自然体でいて、それでいて幸せでいられる関係なのだ。実際、ローファはマリウスのことをいつも思っているけれども、決して理想的な女性を想定した態度を取ったりはしない。それは、多少は可愛く見せたいところもあるが、自分のありのままの姿を好きになってもらいたいとも願っているのだ。しかし、マリウスは……。こんなことで悩むのは、相手が完璧であるが故の我が儘なのだろうか。
いや、思うことがあるのだから、マリウスに率直に打ち明けよう。一人で悩んでいても、結論が出ることはない。もしかしたら、マリウスは自分を大切にしすぎてくれているのかもしれない。少し怖い気もするが、ローファは決意した。マリウスに、自分の懸念を打ち明けよう。もっと自然に接して欲しいと言おう。
祈りを切り上げ、礼拝堂を出る。また軽やかな歩みで廊下を行くローファだったが、呼び止められた。
「ローファ、来ていたの。」
振り返ると、巫女の一人が近寄って来た。レドーラという名の少女である。七貴族の一門、クロティール家の末の女子だったため、巫女になることが決められていて、十三の時から神殿に奉公している。両家の仲は決してよいとは言えなかったのにも関わらず、幼い頃からの知り合いだったから、ローファとは今でも親しかった。
「レドーラ!」
つい大きな声を出してしまった。さすがに、礼拝堂の近くで世間話までするのは恐れ多いので、そのまま二人は中庭へ向う。廊下に連なる柱の影は短く、時刻は正午に近いようだった。ぺたぺたと歩きながら、レドーラが微笑みかけてきた。彼女には、マリウスと森の泉に花を摘みに行く計画を話してあった。だから、祝福をしてくれているのだろう。ローファもにっこりと答えた。
ローファは、廊下を歩きながら今朝の出来事を整理してみていた。そして、中庭に入ると適当なところに腰をかける。何から話そうか迷っているうちに、レドーラに先手を打たれてしまう。
「その様子なら、首尾を聞くまでもないみたいね。」
レドーラは、ローファの手に残るペスメア・リリーを指差す。
「ええ。大成功だったわ。」
花束をレドーラに向けて、ローファは笑う。それから、ローファは『戦果』を報告した。レドーラも笑みを浮かべながら、相槌を打ってくれる。マリウスが「いつか花束を贈る」と約束した件では、レドーラは楽しそうに笑い声を立てた。
「あの人らしいわね。」
「そうね。だからわたしはね……。」
それから、ローファは、二人で手を繋いで帰った話を続けようとしたが、レドーラの顔に浮かぶ、少しだけ寂しそうな表情を見逃さなかった。
ローファは自由な身であり、恋愛も好きなようにできる。しかし、レドーラは巫女として生きなければならない。恋愛は、それ自体が固く戒められているのだ。もちろん、ローファとて、それはよくわかっている。だから、はじめはマリウスとの仲をあまり話さなかった。が、レドーラ自身が、『年頃の乙女の愛の物語』を聞いてみたい、と言い出したので、それから打ち解けてよく話すようになったのだ。
それでも、やはり一方的に話したのはまずかったのかもしれない。ローファは、礼拝堂での思索についても打ち明けるつもりでいたのだが、それはやめにして、レドーラを申し訳なさそうに見つめた。
ローファが口を閉じたので、黙りこんだレドーラは、ふと顔を上げる。
「あ、ごめんなさい。違うの。あなたの話を聞くのは大好きよ。」
様子を察してレドーラはあわてて打ち消した。
「ありがとう……。それじゃあ、昨日届いた染物の話でも聞く?」
ローファは、レドーラの温かい友情に感謝しつつ、話題を変えようと水をむける。けれども、レドーラが急に真剣な表情を見せた。ローファは沈黙する。レドーラは辺りをさり気無く見回してから、口を開く。囁くように。
「やっぱりローファにも話しておくわ。すごく真面目で大切なお話なの。まず、あなた、アディギルアのことはどの位知っていたかしら?」
「アディギルア? ええと……。」
アディギルアは、ペスメアソリスの北方に位置する大国である。漁民と農耕民が住み着いたというペスメアソリスとは異なり、もともとが狩猟民たちの王国だったようで、帝王に権力を集中させた独裁的政治体制をもつ。さらに、近年にグレライオス帝が王位に就いて以来、急速に国土を膨張させ、ゼファースト南西部の諸国、特にここペスメアソリスが警戒を強めている。
同じ頃、マリウスは馬車に揺られていた。四頭立てで、銀色の鷲の紋章が刻まれている豪華なものだ。公式な訪問なのである。長兄のアウレウスに従い、街の中央に位置する元老院に出席しようという道中だった。緊急の召集なので、御者にも急がせている。
マリウスの館は街の北側にある。そこから中央の元老院へ向かって貴族の家が立ち並ぶ。庭付きで、多くは噴水などの高価な設備を備えている。西の商店街が経済の区画であるなら、ここは政治の通りということになるだろう。
そんな家々を眺めながら、アウレウスが尋ねてきた。
「例の娘と会っていたのか。」
「ええ。」
マリウスは答えた。今回の用件については、兄から簡単な説明を受けていた。アディギルアが動くらしい。そんな非常時に、ということかもしれない。が、兄には特に非難しているような様子はない。単に、確認をした、という感じである。しかし、アウレウスは、どちらかというと政治家肌の人物である。そして、マリウスは、兄からの期待を常日頃感じていた。だから、マリウスは続けた。
「アディギルア対策の手は既に打ってあります。我々は、常に先を読んでいますからね。それゆえに、戦後を考えて行動することも大切でしょう?」
アウレウスは笑みをもらした。
「うむ、元老派の連中は、今はアディギルアのことで頭が一杯だ。他のことには無警戒と言えるな。」
ペスメアソリスは現在、大きく二つの勢力に分けられる。イリシャール家を中心とした軍閥派と、同じく七貴族の一つのクロティール家が束ねる元老派である。軍閥派は、将軍たちとその取り巻きの商人たちが主で、陸軍などを統制する。対する元老派は、ペスメアソリスの議会を牛耳ってきて、貿易商や海上戦力を束ねていた。近年は軍閥派の力が強い。アディギルアが攻めて来るとしたら陸路なので、もし防戦に成功すれば、軍閥派がさらに勢力を拡大する結果に繋がるに違いない。
そして、ローファの実家は今まで中立系、どちらの勢力にも組していなかった。しかも、貿易商の一族であり、軍閥派に不足していた海上の基盤を持つ。もし、イリシャール家と結ばれることになれば、貴重な力を提供してくれることになるだろう。
アウレウスはしかし、慎重さも併せ持っていた。
「事前の準備だが。」
一抹の不安を見せて、アウレウスは続ける。
「確かに、アディギルアを意識して、ここ数年の予算は陸軍にかなりの重点を置いて振り分けておいた。問題は、それが有効に機能するか、だ。アディギルアは手強いだろうし、一致団結して戦えるかどうか。戦争は、常に権力争いの格好の材料になる。」
「負ければ一連托生なのに、やはりそれですからね……。」
先ほどの台詞は本心ではなかったので、マリウスが呟くと、どうやら言葉通りに受け止めていたらしいアウレウスが、にやりと笑う。
「クロティールの奴らにとってみれば、イリシャール家に支配権を渡すくらいなら、グレライオスを王に迎えた方がましなのかもしれんな。」
それから少し真面目ぶって付け加える。
「表立ってはそうは言えんから、何か理由はこじつけるだろうがな。」
さらに残りの短い時間、アウレウスは、効果的にアディギルアを防ぎ、かつイリシャール家と軍閥派の勢力を増す構想をいくつか語りはじめる。マリウスはそれらに的確に意見しながらも、内心では若い恋人のことを考えていたのだった。
(もし戦争になれば、わたしも戦地に向かうことになる。ローファにはどう説明すべきだろうか。すぐにでも婚約をして、初陣を祝い、戦功を祈ってもらいたいものだが……。それとも、結婚を申し込むのは帰還してからの方がよいのだろうか。)
「これはこれは。イリシャール家のみなさん!」
元老院でイリシャール兄弟を迎えた若者は、名をシャードルという。クロティール家の嫡男であり、マリウスと同い年にして、既に正式な評議員の地位に就いている。
「あなた方で全員が揃いましたよ。」
そして、マリウスを過度に敵視している。側に控えていた元老派の一人がすかさず付け加える。
「……さすがに将軍家の筆頭は余裕がありますねぇ。アディギルアの軍が迫るさなかに、若い娘でも捕まえて、なかなか放そうとしなかったのではないですか? ははは、いや冗談ですよ。まさかそんなはずはありませんでしたね!」
マリウスとローファの仲は、ペスメアソリス全体に行き届いている。この皮肉に、数人の出席者が追従の笑い声をあげた。もちろん、元老派のものたちだろう。
「いえ、本当のことです。」
マリウスが正直に認めると、一瞬、誰もが言葉を失う。だが、それを待っていたかのように、アウレウスが付け加えた。同時に、マリウスを軽く小突く。
「準備は万端ですから。ああ、幾人かの、強硬な、非常に強硬な反対を押し切って陸軍の予算を拡大しておいたことですよ。あの政策が早くも実を結ぶようですね。」
当然、予算拡大に反対したのは、シャードルを筆頭とする元老派である。
「会議をはじめましょう。」
険悪になりかけた両派に声をかけたのは、中立的立場にある元老院長だ。どやどやと話し声が響き、一同は席につく。各々の席は、部屋の中心に備え付けられた、方形の重厚な樫の机に設けられている。机の向こう側の端に院長が座った。院長席の両隣には、ペスメアソリスの旗が揚げられ、その後ろの壁にはエルラントスの肖像画が飾られている。そして、院長から見て右側に軍閥派、左側に元老派が陣取った。議員たちの背後には秘書官が控え、黒い御影石の壁には、採択されてきた法律の条文が刻まれている。
そうして、アディギルア対策会議がはじまった。マリウスも控えめながら、しかし適切な発言を行った。そのたびに、シャードルが忌々しげな視線を突きつけてくるが、マリウスの頭の中は、やはりローファのことが主であった。
家族や軍閥派たちは、ローファとの結婚まで薦めている。だが、それは勢力の獲得のための政略的な動機によるものにすぎない。だから、彼女との付き合いが過度に深いと、先のように批判の的になってしまうことがある。
しかしローファは、心の底から自分を愛してくれているらしい。ローファの家族にも会ったが、彼らもローファ個人の幸せとして祝福していたようだった。
兄は、それこそ好都合だと言う。ローファがイリシャールを裏切る危険性が低くなるから。そして、相手にも愛の言葉と仕草を投げかけておけ、と。
一方、ローファの心が自分に向かっているのは伝わってくるが、ローファには、ことさらに気を惹くような様子がほとんどない。本当に自然に、それでいて恋の意外性をもって自分と接してくれる。
だからこそ、マリウスは戸惑いを感じずにはいられないのだ。マリウスは己に問い掛け続けている。果たして、自分はローファを愛しているのか。それとも、下心があって、そう思い込もうとしているだけなのか。あるいは、愛されているから、ただそれに応えようとしているだけなのか……。
(ごめん、ローファ。わたしはこんなことを考えてしまう……。)
議題ごとに突っかかってくるシャードルにも、マリウスは上の空だった。そのために、いつもの手加減がなく、容赦のない、非常に鋭い応対になってしまう。傍目には、あきれ果てたマリウスが、むきになるシャードルを適当にあしらっているようにしか見えない。
アディギルア侵攻となると、どうしても軍閥派が中心になるのもやはり避けられない。こうして、会議は軍閥派の主導のもとで終わった。シャードルが歯軋りをするのにも気付かず、マリウスは満足そうなアウレウスと共に引き上げていった。
ペスメアソリスの北方には、街を一望できる小高い丘がある。明け方には、東の森の向こうから朝日が昇り、暮れには、西の海の彼方に夕日が沈む。今はちょうど日が傾いた頃で、空の果てはいつのまにか紫色に染まっていた。しばらく待てば、美しい日の入りを鑑賞できるだろう。
丘の頂きには、大きな菩提樹があって、その根元にローファが一人佇んでいた。マリウスに呼ばれて来たのであり、彼を待っているのだ。珍しく彼の方から誘ってくれたのが、かえって不安に思える。
眼下のペスメアソリスは、ぴりぴりと緊迫した空気に支配されていた。アディギルアの話を聞いてから数日もたたないうちに、だ。確かに、住民たちは一見いつもと変わらない暮らしを送っている。だが、大荷物を背負う家族を少なからず見かけるようになった。ペスメアソリスを離れるのであろう。そう想像するたびに、戦火が近いかもしれない、そんな現実を認識させられるのだ。
マリウスとは、あの日以来会っていない。イリシャール家の次男だから、軍議に忙しいのだろう。思い出のペスメア・リリーは館の玄関と自室に飾らせていたが、もうとっくに盛りを過ぎてしまい、いつのまにか片付けられてしまっていた。森の泉に、二人してあの白い花を摘みに行ったのは夢だったのかも。マリウスは戦場へと旅立ってしまうのだろうか。いや、二人の仲は花のように短命ではない、ローファはそう信じていたが。
「ローファ!」
と、マリウスの呼び声がした。ローファが面を上げると、馬に乗ったマリウスがいて、手を振っている。マリウスを乗せているのは逞しい白馬だ。ローファも何回か触らせてもらった経験がある。おとなしく、力強い馬だ。
「マリウス……。」
ローファが近寄ると、マリウスは馬を手早く菩提樹に繋ぎ、ローファも座るように促してから、丘の草に腰掛けた。ローファも隣にしゃがみこむ。
「こちらから呼び出したのに、待たせてしまったみたいだね。」
「いえ、そんな。忙しいのだから、仕方ないですよ。」
マリウスは、今までローファより後に来ることはなかった。今回はローファがかなり早くから来たこともあったのだが、それでも他でもないマリウスが遅れた。やはり、果たさなければならない仕事が多いに違いない。
「花束を忘れてしまったな。」
マリウスは、そう言ったきり、じっと丘の下のペスメアソリスを見つめていた。言うべきことは色々と考えてあったのだが、こうして寂しげなローファと並んでしまうと、なかなか切り出せなくなってしまったのである。
ローファも、じっと街を眺めていた。並んで見下ろす二人の街。もうすぐ、その向こうの海に夕日が沈む。そして、ペスメアソリスと恋人たちを赤く染めるだろう。切ないような、言葉を出すと脆く崩れてしまうような幸せだった。
が、ローファはやがて意を決した。そして、すっと立ち上がる。それを見たマリウスも、慌てて立ち上がる。緊張した様子の彼を見つめて、ローファは胸の前で両手を握り締めた。
「マリウス……。愛しています。」
急な告白だったが、マリウスは優しく、しかしぎこちなく微笑んで答える。
「ローファ……。気持ちは嬉しい。だが、わたしはこれから戦場に向う。最も危険な最前線の指揮官として。そして、戦とは、誰が死ぬか、誰が生き残るかわからないものなのだ。」
「ローファはマリウスを愛しています。マリウスは、ローファを愛していないのですか?」
ローファは全く怯まない、それどころか、怒ったように叫ぶ。
「戦場に向うあなたには、わたしなんか要らないの? わたしの心は決まっているのに。」
「ローファ……。」
マリウスが戸惑っていると、ローファはいきなりマリウスに抱きついて来た。マリウスが何もできないうちに、ローファはマリウスの胸に顔を押し付ける。
「戦争なんて関係ありません。わたしは、あなたの気持ちが知りたいんです。ローファはあなたが大好きです。マリウスの気持ちを聞かせて……。」
彼女は涙を零していた。それを見て、マリウスはやっと乙女心の一端がわかった。同時に自分の心も定まった気がする。だから、マリウスはローファをきつく抱き締めた。ローファが、一瞬びくっと震える。
「愛している。わたしもあなたを愛している。」
言葉を噛み締めたローファが、ゆっくりと涙に濡れた顔を上げてから、マリウスは続けた。
「神にかけて誓おう。あなたはわたしが守る。この命に代えても。だから、わたしは戦場に向う。そして、必ず帰って来る。花束を携え、あなたを妻にするために。……ローファ、わたしが戻ったら、マリウスと結婚してくれますか。」
ローファはとびっきりの笑顔を見せた。そして、泣きながら返事をした。
「はい!」
ローファが背伸びをして、マリウスは屈みこんだ。二人は唇を重ねる。夕日が、遥かなる海から恋人たちを赤く染めていた。一つになった影は、丘の向こう、地の果てまで伸び、夕闇の中に溶け込んでいく。
第二章に続く
著作・制作/永施 誠