ペスメアソリスの乙女−第二章

初版:2001-05-26

目次

全体

  1. 第一章 ペスメアソリスの春
  2. 第二章 ペスメアソリスの二つの戦い
  3. 第三章 アディギルアの客人
  4. 第四章 ペスメアソリスの怪物

章内

  1. 2−1
  2. 2−2
  3. 2−3
  4. 2−4
  5. 2−5
  6. 2−6
  7. 2−7
  8. 2−8

第二章 ペスメアソリスの二つの戦い

一、

 八方から地響きが轟いていた。見渡す限りの森と野を埋め尽くしているのは、人、人、そして人だ。整列した軍隊は、初夏の太陽を浴び、空に突き出された鋼鉄の槍や剣が煌めく。マリウスは、目を細めながら、ペスメアソリス軍の布陣を見据えていた。戦を前にした緊張で、口に運ぶ携帯食の味など何も感じはしない。武具と防具がじゃらじゃらと音をたてている。
 ローファと丘で話してから一月余り。そして、ペスメアソリスを立ってから二週間ほどになる。マリウスは、とりあえずローファのことを頭から追い払おうとした。これから自分は人を殺す。そんなときに、汚れなき彼女の姿を思い浮かべることなどできようか。
 情報によると、アディギルアは予測を上回る大軍らしい。そこで、地の利をいかし、山道を抜けた林と丘を選んで陣取らせた。敵軍は苦しい山道をようやく抜けたところで、見通しの悪い林を抜け、細長い隊列のまま、さらに丘を登ることになるだろう。一方の友軍は、弓兵と重歩兵を丘の手前に置き、敵の左右を突く林の中には騎兵を潜ませて、今か今かとアディギルアの侵略者を待ち構えているのだ。さらには、先の山道にも遊軍を配し、敵を分断する手はずを整えておいた。
「将軍閣下、布陣は完了しました。」
 将校の一人が報告する。備えは万全、あとは剣を振るうのみ。
「いよいよ初陣ですな。」
 参謀が大声をあげた。戦場で普通に話していても誰にも聞こえない。
「ああ。ペスメアソリスの勇猛さをアディギルアに見せ付けてやろう。」
 その言葉が終わらないうちに、斥候が戻ってきた。
「ご報告致します。アディギルア軍の先陣が姿を見せ始めています。」
 マリウスは剣の柄に手をかけた。
「よし、十分に引き付けろ。弓兵の一斉射撃の後、騎兵の突撃だ。そして、重歩兵で奴らを蹂躙する。」
 マリウスが自分で立てた作戦を確認すると、全員が敬礼した。
「では行くぞ。」
 マリウスは余裕さえ見せ、馬に飛び乗った。
 こうして、遂にアディギルア対ペスメアソリス戦争の戦端が開かれるのだった。

二、

 ペスメアソリスのエルラントス大神殿。まだ早朝だというのに、既に多くの巡礼者が訪れている。女や老人、そんな、戦士を送り出したものたちが、愛する人の戦勲や無事を祈りに来たのである。
 レドーラは、ぼんやりと、あてどもなく神殿を巡回していた。彼女は、身分高き家の出身なので、雑用などを申しつけられることはあまりない。巫女としての最低限の務めは立派に果たしていることだし、誰にも文句は言われない。逆に言えば、それがために孤立しているのだろう、とも思う。ただ、そんなことはどうでもよかった。レドーラにとって重要な人間は世界に三人しかいない。他の人間とはどうあろうと全然関係ないのである。
 自分にとって重要な人。はじめの一人は兄であるシャードル、最近はあまり会いに来ない。きっと戦争のせいだ。
「レドーラ!」
 見ると、次の一人が駆けて来る。ローファだ。掛替えのない親友で、最も大切な人だ。歩み寄りながら、にっこりと挨拶を送ると、ローファも笑ってくれた。
「おめでとう。」
 レドーラが早速祝福したが、ローファは怪訝な表情を見せた。そうか、まだ知らないのだ。そこで教えてあげた。
「マリウスは勝ったわ。初陣を華々しい勝利で飾ったそうよ。」
 途端にローファは、ぱっと明るくなった。
「本当?」
「ええ。ペスメアソリスの損害は少なく、対するアディギルアの第一陣に壊滅的な打撃を与えたそうで……。」
 並んで歩き、伝え聞いた噂をローファに話しながら、レドーラはふと思った。ローファが喜んでいる影では、愛するものを失った幾百もの乙女たちが涙を流している。この事実を指摘したら、彼女はどんな反応を見せるだろうか。
「マリウスの立てた作戦が完全に成功したみたいよ。将軍マリウスならば、連戦して連勝するだろう、みんな褒め称えているわ。」
「そうなの。とても嬉しい……。」
 ローファの、正直なしかし陰のある笑み。
「でも、わたしは、とにかく早く帰ってきて欲しい。」
 レドーラは少し言葉を切った。ローファなら、見知らぬ幾百もの乙女のためにも涙を流すかもしれない。さらに思う。自分は、顔もわからない人間たちを想像できるが、決して共感することはない。ローファは、どんな問題も素直に自分のものとして受け止めるけれど、目に映るものしか見えない。
「ごめんなさい、戦争なのね……。」
 ローファが呟いた。そう、これは戦争だ。女は男のために泣き、男は女のために闘うのだ。誰が女のために泣けるだろう?
「お話をありがとう、わたしはもう行かなきゃ。」
 戦争がはじまると、なぜか誰もが忙しくなる。手を振って去って行くローファを見送りながら、レドーラは決意した。マリウスに万一のことがあればローファは泣くだろう。そしてわたしは、マリウスの為にではなく、ローファのために泣こう、と。

三、

 戦場だった場所は死臭に包まれていた。ぶすぶすと音をたてて、屍が煙を放っている。つい先ほど振り出した小雨で視界が霞む中、あちらこちらから、怒鳴り声やうめき声が聞こえてくる。何か、遥か遠くの物音のような気がする。
「勝ったか……。」
 マリウスは呟いた。これで四度目の戦闘、四度目の勝利である。あまりにも生々しいせいで、かえってこれは現実なのかと疑いたくなる。肩のずきずきとした痛みでさえ、幻のように思えた。
「閣下!」
 と、鎧を脱ぎ捨てた将軍の一人が駆け寄ってきた。
「またお一人ですか! 万一のことがあったらどうするのです。護衛は必ずお付けください、これほど申しておりますのに。」
 はじめ、若造として侮っていた向きもあった幕僚たちも、マリウスの的確な作戦と、勇敢なる戦いに感服し、今では軍閥派の筆頭として、そしてペスメアソリス軍の指揮官として最大限の敬意を示している。そして、肩に矢を受けたマリウスを過剰に心配している。
「生き延びたな。」
 マリウスは先の質問を無視した。しかし、相手は喜びに顔を紅潮させた。
「はっ。そう命令されましたので。」
 マリウスは、とにかく生き延びろ、そう号令をかけて突撃したのだ。今までになく苦しい戦いだったのである。
「ああ。こう連戦が続くとな。戦力の消耗は避けなければならん。」
 マリウスは、わざと冷たい感じで言葉を放った。そして、また辺りを見渡す。倒れているのは敵軍の兵士だけではないのだ。
「特に騎兵の損害は大きい。」
 今までよりも馬の死骸が多い。今回は荒地で戦闘をせざるを得なかったのだ。騎兵には不向きな地形である。そして、アディギルアには不幸なことに、彼らはほぼ全軍が騎兵だった。
 マリウスは、戦に勝っても、決して酒に酔うだけの男ではなかった。必ず戦場を見回り、次の戦いに役立てようとする。何しろ、アディギルアは強大である。そして、戦争とは勝敗の数を競うものではない。最後の、ただ一回の勝負を賭けるものなのだ。マリウスはそれをよく理解していたし、戦力で上回るアディギルアは一向に戦いをやめようとはしていなかった。
 将軍たちにもマリウスの考えは浸透してきていて、マリウスの前にいる将軍も、真剣な表情で辺りを調べ始めた。敵軍の詳しい武装や、兵士の組など、わかることは多いのだ。
(ローファ……。)
 マリウスは故郷の方を見遣った。小雨のぱらつく天候であり、目に映るのは、ぼんやりとした親しみのない山々だけである。今ごろ、彼女も自分のことを思っているのだろうか。戦が終わるたびに、血塗れの手を洗う。そうしながらローファのことを思う。早く帰りたい、しかしそれはできない。
 もっとも、焦る気持ちは敵を利するのみだ。マリウスはテントに戻ることにした。ついつい溜息が漏れてしまうが、ここは戦場である。マリウスの憂鬱に気付いたものは誰一人としていなかった。

四、

「マリウス様がまた勝利を収めたそうです。」
 嬉しげに差し出された手紙を受け取り、アウレウスは微笑んだ。
「うむ、ご苦労。隣室に酒などが用意してある。疲れを癒すがよい。」
 それきりで、退出する伝令には目もくれず、アウレウスはマリウスからの便りを広げた。
 ここはイリシャール家の館、アウレウスの書斎である。分厚い書籍をぎゅうぎゅうに押し込めた本棚に囲まれ、黒檀の机には書類が山積みになっている。手飼の諜報たちから届けられた膨大な報告書だ。戦時だけあって、いつもより多く、さらに、読む必要性の方も大きい。
(前略。……今のところ敵軍の進駐を阻んでいるものの、兵力差は予想以上に大きく、錬度の高いアディギルアに消耗を強いられています。分散する敵は、各個撃破の目標にはなりますが、こちらの疲労が重なることは避けられません。止め処なく湧き出てくる敵を追い、補給線も長く伸びてきてしまいました。地理的な優位は変わらず、また、士気は高い水準を保っていますが、全体としての見通しは暗いと言わざるを得ないでしょう。遅滞なき補給、追加戦力の応援、いち早き講和が望まれます……)
 マリウスからの通信をざっと読み、アウレウスは椅子に座った。もうじき、五度目の戦略会議がある。準備は早めにすませてある。マリウスからの定時報告を詳しく頭に入れて向うことになろう。
(我が弟は期待以上に強い。だが、少々勝ち過ぎているのかもしれん。いや、マリウスは外なる敵とよく戦っている。内なる敵と戦うのは自分の役目だ。)
 はじめの、劇的な勝利の連続のせいで、ペスメアソリスにはすっかり楽観的な観測が広まってしまった。現在、戦況が次第に苦しく傾きつつあるのに、誰も安直な考えを改めたりはしない。
 軍閥派は講和に消極的だ。マリウスもわかっているように、都市国家であるペスメアソリスに十分な国力があるとはいえない。大帝国アディギルアが次々に出兵を続ける限り、いつかは力尽きてしまうだろう。ペスメアソリスが優勢なうちに、講和をまとめるべきなのだ。しかし、こうも勝っていると、アディギルアが交渉に同意したとしても、過剰な譲歩を要求して、せっかくの機会を無為に帰すことになりはしないか。
 そして、元老派である。奴らが次第に協力を渋り始めたのである。特に、シャードルの焦りは大きいようだ。長く中立派が就いていた元老院長の椅子だが、今の院長には後継ぎがいない。次の院長を決めるのは、七貴族の会合である。これまで、シャードルの着任が有力視されていたのだが……。もしかしたら軍閥派に院長の座を奪われるのではないか、そう心配しているのだろう。彼は、元老派の中で、アディギルアによるペスメアソリスの存亡という構図を、軍閥派による元老派の存亡という構図に摩り替えつつある。
 遂には、援軍を出し渋るようになってきた。さらに、講和にも積極的ではないのだ。恐らく、勝利ばかりの情勢では、主導権を軍閥派に握られると考えているに違いない。そのため、マリウスの軍が苦戦することを期待しているのだろう。愚かな連中だ。マリウスが負けでもしたら、一体どうするつもりなのか。
 誰もが、マリウスの軍才を過剰に評価してしまっている。
「お願いします。マリウスを早く帰してあげて下さい。」
 ふと、ローファという娘から投げかけられた言葉を思い出す。彼女の実家を訪問したときだった。……海からの食糧輸入の拡大を打診しに行ったときのことだ。全面的な協力を取り付け、満足して帰ろうとしたアウレウスの前に、突然ローファが駆け寄ったのだ。彼女は、あわてた家人に連れられて行ったが、彼女の真摯な瞳は忘れられない。
(マリウス、おまえには、帰りを待ち侘びてくれる乙女がいる。死ぬなよ。)
 アウレウスは、マリウスが戻ってきたら、ローファとの仲を心から祝福する気になった。そして、また考えた。
(マリウスは外なる敵を避けつづけている。私は内なる敵に勝たねばならん、十分な補給を整え、援軍を派遣し、そしてアディギルアと講和を結んで見せよう。)
 扉を開き、執事が時間を告げた。アウレウスは、戦略会議に出席するため、館を後にした。

五、

「マリウス様!」
 叫び声と同時にぶしゅっと嫌な音がして、兵が倒れる。ぱっと血の臭いが広がり、苦々しい気持ちが沸いてくるが、もうどうしようもない。
「囲まれるな! 固まって持ち堪えろ!」
 マリウスは、すばやく剣を振るい、次々に迫る敵兵を連続して斬り捨てる。
(押されてきたな……。)
 背後からの奇襲だったのだが、敵はすばやく隊列を組み直し、数の優位を発揮しはじめている。さらに、敵の向こう側に土煙が見える。前方に展開していた別部隊が異変を察知して引き返して来るのだろう。
(だが、これでよい……。)
「よし! 撤退!」
 馬首を返してマリウスが怒鳴ると、脇に控える部下が急いで鐘を打ち鳴らした。
「撤退! 撤退だ!」
 合図を機に、ペスメアソリス軍は一斉に森に引き返していく。既に乱戦になっていたため、果たせずに取り残される兵も多い。が、止むを得まい。ここでもたついていたら、何もかもが無駄になってしまうのだ。マリウス自らが殿をつとめた。敵を誘き寄せるためである。意図通り、マリウスを認識した敵が、陣形を乱したまま殺到してくる。
(この戦を終わせば目処がつく。)
 マリウスはきびきびと指示を飛ばしながら考えていた。既に七つの会戦に勝利していた。今回は、補給基地に対して奇襲を仕掛け、護衛部隊を引き剥がそうとしている。そして、目論見は成功しつつある。あとは、取り決めてあった目標地点で援軍と合流し、この追跡部隊を破る。さらに引き返して、弱体化した補給基地を攻略する。作戦が成功すれば、アディギルアの被る損害は甚大であり、しばらくは戦争を継続できなくなる。そうなれば、おそらくは、ペスメアソリスに大幅に譲歩して、講和条約を締結する他ないだろう。
(今度は花束を忘れないようにしなければ。)
 合流地点が近づいてきた。兄からの密書によると、妥協点として、元老派の率いる軍が送られるらしい。最後の、おいしいところだけの手柄を分け与えることになるが、勢力の均衡を考えれば妥当な決断かもしれない。それに、マリウスは戦勲のために出陣したわけではない。ペスメアソリスを守るために、一人の大切な乙女を守るために、故郷のペスメアソリスを離れたのである。
「もうすぐですね!」
 並んだ将校の一人がマリウスに声をかけた。嬉しそうだが、油断はしていない。
「ああ、もうすぐだ。」
 マリウスも笑って応じる。そして、また一人、敵を葬る。合流地点の丘は、この森を抜けるとすぐだ。そして、前方に光、森の出口が見えてきた。

六、

 ペスメアソリス東の森。生憎の雨の中、三人の護衛を引き連れたシャードルは歩いていた。がさがさとあちこちから奇妙な音がするが気にしない。これからはじまることを思うと、むしろ嬉しくて堪らないくらいだ。
「おまえたちも楽しみにしてよいからな。」
 シャードルが珍しく機嫌のよさそうな声をかけてきたので、護衛の男たちは驚いた。しかし、すぐに下卑た笑いをもらす。
「へい。」
 会議では軍閥派の一部の抱き込みに成功し、譲歩を引き出した。もっとも、シャードルの息のかかったペスメアソリス元老派軍は、まだ街を出ていない。そう、まだ仕事が残っているのだ。軍閥派の主力がいない今こそ、公然と武力を整えられた今こそ、イリシャール家の館を包囲しなければならない。さらに今、シャードル直々にローファを迎えに来ている。
「今の俺はどうだ?」
 にやりとして、シャードルは尋ねた。
「完璧です。」
 護衛がいつものように声を揃え、シャードルは満足した。と、前方に女が見える。手に白い花を抱えている。下を向いているので、まだ誰だかわからない。
(あいつか?)
 シャードルが声に出す前に、女が顔を上げた。雨の中に光を放つような白い肌と金髪、つぶらな空色の瞳をもつ美しい娘だ。こちらに気付いたローファは立ち止まった。ざっざっとシャードルたちが側に寄ると、彼女の赤く可愛らしい口が澄んだ声を放った。
「シャードル様? わたしに御用ですか?」
 美しい娘だ。が、シャードルの好みではない。シャードルは、ふくよかな年上の女が好きなのだ。それに、こいつはマリウスの女である。収穫祭でシャードルを完敗させ恥じをかかせたマリウスの女だ。まったくもって憎しみ有り余る相手である。
「ああ。」
 ローファは、ペスメア・リリーを胸に抱き寄せて、不安げな表情を見せる。こちらの不穏な気配が伝わっているのだろう。シャードルは、舐めつくような視線をローファに浴びせる。もったいなくて、なかなか言う気になれないのだ。雨がばらばらと木々にあたる音のみが耳を打つ。
「どんな御用でしょう?」
 待ちきれなくなったのか、ローファから尋ねてきた。
「うむ、実はな、お前を拘束しに来た。」
 呆然として何も言えないローファだった。が、シャードルの合図と同時に、護衛たちがすっと出て、すばやくローファの両腕を捕まえると、さすがに我に返ったのか悲鳴をあげた。心地よい響きである。
「どうしてですか!」
 理不尽な出来事にローファは必死に暴れている。だが、もちろん、屈強な男たちを振り切れるわけはない。シャードルは笑みを溢しながら説明してやる。これが楽しみで仕方なかった。
「無能なるマリウスが寝返ったのさ。」
 マリウスという言葉に反応したローファは抵抗を止め、シャードルを見つめた。が、意味を理解してすぐに叫ぶ。
「そんなはずはありません!」
 シャードルは意味もなく、辺りを歩き回りながら笑ってやる。ばしゃばしゃと泥が跳ねるが気にもならない。
「いや、本当だ。しかも、今までの戦勝の報告もでっち上げだったそうだ。まあ、見当はついていたよ。いかにもイリシャール家のやりそうなことだからな。だいたい、勝っている軍がどうして援軍を要請する? 負けて負けて、援軍をやっても負けて、アディギルアの軍にこてんぱにされて、とうとう捕まってどうしようもなくなった。そしたら命乞いしたらしいぞ。」
 マリウスはそんな人じゃない、でたらめ言わないで。あまりの怒りに、ローファは何も言えなくなってしまった。調子に乗ったシャードルが芝居がかった口調で体をくねらせた。
「お願いだから命だけは助けてください、そうしたら何でもします、そうだ、ペスメアソリス攻略の手引きをしましょう。ペスメアソリスの女も差し出します。」
 護衛たちが一斉に笑い声をあげた。ローファの瞳には、悔しさのあまりに涙が浮かんでくる。シャードルがそれに気付き、ローファの顔に手をやって、涙を指で掬い上げる。
「ほう、情けないマリウスに泣けてき……なっ。」
 ぴゅっと唾を吐きかけてやった。だが、その途端にシャードルの様子が一変した。口をつぐんで、ゆっくりと、頬にかかった唾に手をやる。そしてローファを殴った。
「うっ。」
 いきなり腹部に強打を受け、ローファは激しい痛みに咳き込んだ。俯いたローファの髪を掴み、無理やり面を上げさせて、シャードルは凍るような声で告げる。
「俺はマリウスを許さない。貴様も同罪だ。地獄を味わいたいらしいから、すぐにでも思い知らせてやる。さて、乙女の危機に、勇者さまは助けに来てくれるかな?」
 シャードルは、腰から短刀を抜き、震えるローファに光る刃を近づけてくる。
「まずは根元から髪を切ってやろう。」
 ペスメアソリスの乙女がばっさりと髪を切るのは、生涯の伴侶を失った時くらいである。
 それから、ローファの悲鳴が響き、そして泣き声が漏れた。森には狼と羊だけ。マリウスはやはり助けに来てくれなかったし、他の誰も助けに来ることはなかった……。

七、

「どういうことだ!」
 マリウスが珍しく、怒りのあまりに叫ぶ。
 援軍との合流は果たせなかった。目的地に着いても、友軍は待っていなかったのである。マリウスは、仕方なく、そのまま追っ手を撒いての一時退却を決断した。しかし、どういうわけか、敵に経路を察知されていたらしく、あらゆる退路に敵軍が潜んでいた。普通なら、もうとっくに全滅させられていただろう。そこを、マリウスが先頭に立って活路を切り開き、何とかここまで逃れられた。
 だが、本陣を前にして、遂にアディギルアの大軍に包囲されてしまったのである。そして、あろうことか、前方に立ち塞がった軍は、共にアディギルア補給基地を攻めるはずだった、ペスメアソリス元老派の軍勢だったのだ。
「マリウス様、お待ちしておりましたよ。」
 平然として、元老派の将軍が歩み出た。確か、はじめの戦略会議でローファとの仲を皮肉った男だ。
「どういうことだ?」
 マリウスは、再び尋ねる。今度は、押し殺した声で。マリウス指揮下の、残り少なくなった軍も色めき立つ。だが、やはり相手に動じた様子は見られない。そのまま、顎鬚に手をやって、重々しい感じで答える。
「ペスメアソリスは既に陥落しております。」
 衝撃的な発言にマリウスは唖然とする。
「馬鹿な! アディギルアは我々が食い止めていたのだぞ!」
 マリウスの脇に控えていた将軍が怒鳴る。
「陥落は真実でございます。貴公の兄上、アウレウス殿が、アディギルアへの降伏を決断されたのです。」
 彼はイリシャール家の印の入った文書をマリウスたちに掲げた。降伏文書だ。そして、信じがたいことだが、その印は本物であった。
「なぜ、降伏する必要がある?」
マリウスが唸ると、
「ローファ様との愛のためでしょうな。」
「ばかな……。」
 相手はしれっとして説明した。
「グレライオス陛下は約束したのです。もしアウレウスがペスメアソリスをアディギルアに引き渡すならば、ローファはアウレウスに与えられるであろう、と。」
「そして、ローファは?」
 ローファの名に思わず尋ねるマリウスに、相手は一房の髪を渡す。緑がかった、輝かしい金髪。さらさらとしていて、ローファのものに間違いないようだ。どういうことだ、と目で問い掛けると、
「自殺しました。まあ、理由は存じませんがね。」
 皮肉っぽく肩をすくめる。あまりのことに剣を落としてしまったマリウスを、先ほどの将軍が揺さぶった。
「嘘に決まっています! 裏切ったのはクロティール家の連中です。戦いましょう。一人でも多くの敵を道連れに!」
 マリウスに従う兵士たちも賛同の声をあげた。すると、アディギルア軍からも一人の将軍が歩み出た。警戒しているのだろう。だが、マリウスにはもう戦意は残っていない。
「いや、降伏する……。」
「なぜです?」
「我々の勝機が奪われたことにかわりはあるまい。ペスメアソリスは陥落したか、あるいはこれから陥落する。なのに、我々は何の為に戦うのだ? しかも、この状況だ。」
 マリウスが両手を広げてゆっくりと問い掛けると、一同は沈黙した。そう、ローファを守れなかった。戦う理由など、もうどこにもない。
「外なる敵にか、内なる敵にか、我々は敗れた……。」
 それから、マリウスは指揮官としての最後の義務を果たそうと、アディギルアの将軍に確認した。
「どうやら、我々は既に降伏していたらしい。ということは、部下の安全は保障してくれるのだろうな?」
 それを聞き、アディギルアの将軍は安心したように答えた。ちょっとした敬意を込めて。
「もちろんです。特に、マリウス将軍、貴公は敵ながら勇士でした。グレライオス陛下もたいへん感心なされております。どうか、アディギルアにお越し下さい。もし、同行していただけるなら、ペスメアソリスの民の安全も保証し、さらに、貴軍の兵を捕虜扱いすることもしない、そう申し付けられております。」
「どういうことです? マリウスの身は我々に引き渡されるのでは?」
 聞いていなかったのであろう、元老派の将軍は驚き、抗議したが、アディギルア軍に逆らえるはずもない。マリウスも、その条件を聞いては同意せざるを得なかった。まずは自分の義務を果たさねばならない、ローファのことを思いつつもマリウスは考えたのだ。

八、

 ローファは、じっと横たわっていた。男たちは、だいぶ前に、ぼろぼろにしたローファを捨ててペスメアソリスに引き返して行った。自殺でもしろ、シャードルは命令口調で言い、嘲笑っていた。
 しとしとと降りかかる雨の下で、森の囁きは何も耳に入らない。周りに、ペスメア・リリーの花が散らばっているのが目に映る。遠くのマリウスのためにせっかく摘んだのに。花びらについた雨粒が、ぽたりぽたりと地面に落ちていった。
(マリウス、どうか無事でいて……。)
 やがて雨が止んでしまったので、ローファはふらふらと立ち上がった。そのまま、ぼんやりと泉に向かって歩き始めた。一歩足を進めるたびに体に痛みが走る。ああ、穢れを落とさないと。
 森の泉は嘘みたいに静寂で、その上空には、雨が止んだせいか虹が出ていた。いつもと同じような、いやいつもにもまして美しい姿でローファを迎えてくれる。だが、ローファの方が変わってしまった。もうどうでもいい。ローファが黙って泉に身を入れると、澄み切っていた水が血に濁っていく。乱れた水面に、自分の顔が映る。短い髪の女が見える。男たちに、大事な髪を切られてしまったのだ。
(マリウスに愛されたローファは、もう死んでしまったのかしら。)
 ローファは泉の中で立ち尽くす。ずきずきとしていた痛みが、水の冷たさに麻痺していく。だが、決して癒されたわけではない。ローファの心を、言いようのない寂しさが埋め尽くして溢れ出した。
(それでも、マリウスを愛したローファだけは、まだ死にはしない。)
 そして、どす黒い怒りと、底の無い憎悪と、どうしようもない絶望とが心を覆いはじめた。

第三章に続く

著作・制作/永施 誠
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