ペスメアソリスの乙女−第四章

初版:2001-05-26

目次

全体

  1. 第一章 ペスメアソリスの春
  2. 第二章 ペスメアソリスの二つの戦い
  3. 第三章 アディギルアの客人
  4. 第四章 ペスメアソリスの怪物

章内

  1. 4−1
  2. 4−2
  3. 4−3
  4. 4−4
  5. 4−5
  6. 4−6

第四章 ペスメアソリスの怪物

一、

「マリウス……。」
 ローファは独り泣いていた。
「マリウス、早く帰ってきて……。」
 ローファは、その身をペスメア・リリーの寝床に埋め、狂おしく哀しい夢を見ていた。

 エルラントス大神殿、ここでマリウスの帰郷を願おう。ローファは神殿の前に立つのだが、そこに在りし日の面影はなく、寂れた廃墟が打ち捨てられているのみだった。門は朽ち、血走った目の、赤や黒の犬が辺りを徘徊し、得体の知れない腐り果てた肉などを漁っている。見ると、痩せ細り、疲れきった老人たちが神殿の壁によりかかっていた。
「これは……。いったい何があったのですか。」
 ローファは入り口に座り込む老婆に声をかけた。巫女の姿をしていたのだ。老婆は、気だるそうにローファを見上げた。得体の知れない寒気に震えながらも、しばらく待っていると、老婆は煩わしそうにぶつぶつと語り始めた。
「呪われてしまったのさ。いかに神に祈っても、天からは一粒の雨も降ってこない。小麦も大麦も何も収穫できなくなり、馬や羊たちも次々に死んでいったよ。人間さまも餓えて死んだ。供え物もない、ご利益もない、恵みに見捨てられたから、神殿を見捨てるのか。今では巡礼者は絶えてしまったのさ。」
「どうしてそんなことに……。」
 老人たちに群がる蝿に怯み、ローファは両手を合わせてきつく握り締めた。そんなローファを見つめて、老婆は急に、にやにやと笑い出した。
「わからないのか?」
 ローファは首を傾げて老婆に視線を戻す。と、老婆の髪が白から黒へと染まり始めた。皺がなくなり、背筋が伸びて来る。老婆は、急速に若返っているようだった。
「本当にわからないの?」
 若返った巫女が繰り返した。それは……レドーラだった。蔑むようなレドーラだ。ローファは悲鳴をあげた。
 途端に、ローファの体がぐんぐんと空に昇りはじめた。そして、ペスメアソリスの暗闇を一望のもとに見渡すことになった。至るところに、白と黒の斑点に覆い尽くされた屍が放置されている。それも、何かに食い千切られたような凄惨なもので、しかも肉や骨が溶けかけている。家々にはべっとりと赤黒いものがこびり付いていた。屋敷という屋敷が焼き払われていて、冷え切ってしまった灰が風に舞う。
 ローファの眼には、ペスメアソリスの外の災厄も飛び込んで来る。旅人たちは倒れ、田畑は干乾びている。かつての野や草原は荒地と化し、家畜の骨が散乱していた。小鳥が、蝶が姿を消し、かわりに、けたたましい声と共に、禿鷹や蝗たちが飛び交っている。
(どうして……。)
 見ると、東の森だけがまだ緑を残していた。しかし、植物は変質していた。不気味な、馴染みのない、吐き気を招くような気持ち悪いものばかりだ。そして、そこには、巨大なる怪物が蠢いていて、森の陰からゆっくりとその姿を現そうとしていた。

 悲鳴をあげてローファは跳ね起きた。まだ夜中のようだが、目を覚ましてしまった。ここは? ローファは周りを見回す。真っ先に、大きな菩提樹が目に飛び込んだ。ローファは、そっと樹に抱きつき、心を落ち着かせる。ここは、マリウスに結婚を申し込まれ、そして将来を約束した丘である。ペスメアソリスを一望できる丘だ。ローファは頭をもたげてペスメアソリスを見遣る。ペスメアソリスはローファの故郷、同時にマリウスの故郷でもある街だ。ローファにとって世界の中心である。
(変わっていない。あの夕暮れの時のまま、あの日、あの人と将来を見つめた街のままだわ。)
 ローファは安心した。それから、ローファは独り森の泉へと向う。ペスメア・リリーを摘みに行かなければならないのだ。森の道中には、多くの人が倒れていた。兵士だったのだろう、側には剣だの、弓矢などが落ちている。が、ローファは、そんな光景にはもう慣れてしまっていた。
(戦争では人は死ぬもの。確かにとても悲しいこと。だけど、マリウスも人を殺すことで生き残っている。それなら、わたしだって純粋なだけではいけない。アディギルア兵にせよ、ペスメアソリス兵にせよ、もはや私たちの敵なのだから。)
 ローファは、マリウスが裏切られたことを知っていた。シャードルから教えられたといってよい。そのシャードルが、最近アディギルアに対して無謀なる戦いを挑んだのである。マリウスをなくしてペスメアソリスに勝機があろうか。はたしてペスメアソリスは駐留軍に敗れた。
(だけど、これでマリウスが帰って来られるのね。)
 ローファは、大衆がマリウスを裏切り者と見なしていたのを知っていた。それゆえ、マリウスが戻ってきたら危険な立場に置かれるだろうことも。しかし、これで誰もが思い知ったに違いない。本当の裏切り者が誰であったのかを、そして、ペスメアソリスの真の守護者はやはりマリウスしかいないと。
 そんなことを考えながら、ローファは泉へと辿り着いた。心なしか、泉は悲しげな様子だ。けれども、純白のペスメア・リリーの群れだけは、清らかさを失うことなく芳しい香りを放って揺れている。とりあえずローファは岸辺まで歩き、喉の渇きを癒そうと水面に手を差し伸べた。
 そこでローファは凍りついた。鏡となった泉に、あの怪物、ローファの夢を覆い尽くそうとした、あの醜悪なる怪物の姿が映し出され、こちらを睨みつけていたのだ……。

二、

「マリウス様、こちらです。」
 牢番が松明をかざした。マリウスは、シャードルとの面会のためにアディギルアの地下牢まで来ていた。
 ペスメアソリスで動乱があったのだ。アディギルアは、表面だった融合策を採ったりはしていなかった。しかし、帝国の各地で飢饉や疫病が続いている。締め付けが厳しくなると焦りはじめたのだろうか。シャードルたちは急遽、ペスメアソリス私設軍を徴兵した。そして、アディギルアの駐留部隊に戦闘を仕掛けたのである。奇襲ではあったが、所詮は急作りの組織だ。シャードル私設軍はすぐに敗れた。首謀者たちは捕らえられ、こうしてアディギルアに送致されてきた。ペスメアソリスをこのまま併合すべきかどうか、それを判断するために、マリウスがシャードルにその真意を尋ねることになった。
 アディギルアの地下牢は、薄暗く、蒸し暑く、そして狭苦しい空間だった。宮殿の地下で発見された洞窟を利用しているらしく、岩をくり貫き、通路などに補強の木材を組み込んだ造りである。そして、迷路のような構造をしていて、牢番の案内なしには、目的地に辿り着くことも出口に戻ることも難しいように思える。
 ただでさえ長居はしたくない場所だ。ここに幽閉されたものたちは、どんな絶望にあるのだろう。あちこちの独房でうずくまる囚人たちを見ながら、マリウスは考えた。そして、かなり奥の方まで行って、牢番がやっと告げた。
「ここです。」
 牢番が松明を扉に挿し、武器を構えて鍵を開けてくれた。マリウスは背をかがめて牢獄に入る。中には、ぼさぼさの髪をした男がいた。シャードルである。かつての栄光はとっくに剥がれ落ちている。
「マリウス、貴様か。」
 シャードルは、マリウスに顔を向けようともせずに言い放つ。
「そうだ。」
 マリウスは静かに答えた。
「随分と立派な身分じゃないか。落ちぶれて、とうとう地下牢に引き込もった俺とは大した違いだな。」
 マリウスは何とも言えなかった。まさか、自分への対抗心のためだけに叛旗を翻したのか。この愚かな男ならばやりかねない。
「ペスメアソリスを裏切ったのはやはり貴様だったんじゃないか? 俺のことを嵌めたんだろう?」
 マリウスはむしろあきれ果てて、溜息さえつきたくなった。
「言っておくがな、貴様の兄貴を殺したのは俺だぞ。しかも、世の中わからんものだな、おかげで、ペスメアソリスの愚民どもは、今でも貴様の方を憎んでいるのだぞ。」
 マリウスは答えない。もはや怒りはない。それどころか、シャードルに哀れみの念さえ抱きはじめる。それに敏感に反応したのか、シャードルは飛び起きて叫んだ。
「それにな! 教えてやろう。貴様の女は俺が奪ってやったぞ!」
 そしてシャードルは、けたたましく笑い出した。マリウスはさすがに怒りを覚えて口を開こうとした。だが、
「ふざけるな! カーネア様に貴様なぞが手出しできるはずはない!」
 突然、牢番が口を挟んだ。それまで黙って聞いていたのだが、尊敬すべきマリウスを侮蔑し続けるこの反乱者に我慢できなくなったのである。すると、シャードルは急にしゃがみこんでしまう。
「カーネア……?」
 そうして大人しくなり、掠れた声で呟いた。
「呼び捨てにするな! カーネア様はアディギルアの王女殿下であるぞ。知らんわけはなかろう。この世界で最も高貴なる方だ。マリウス様は、その伴侶となり、将来は我々アディギルアの民を、この大帝国を率いる王となられるのだ。」
 マリウスとカーネアとは、まだ正式な婚約関係にはない。だが、これはもっぱらの評判だった。しかも、牢番をはじめとして、アディギルア中の人が歓迎し、祝福する噂だったのである。そして、マリウスは、もはやそれを否定できなくなってしまっている。
「カーネア……。」
 シャードルが、もう一度弱々しく繰り返す。
「呼び捨てにするなと言っているだろう!」
 興奮した牢番がシャードルを小突くと、シャードルはばったりと倒れた。マリウスはさすがに彼に駆け寄る。と、どういうわけか、シャードルはがたがたと震え、夥しい量の汗を流していた。
「シャードル? どうした?」
 シャードルは一切反応しない。ただ、戯言のように唇を震わせて何か言おうとしている。マリウスはシャードルを揺さぶった。
「シャードル? 何だ?」
 ごぼっごぼっごぼ、突然、シャードルが吐血した。シャードルの口から、信じられないほど大量の血が絞り出される。
「シャードル!」
「マリウス様! お下がりください!」
 驚愕するマリウスを牢番が引き離す。同時に、マリウスの目の前で、シャードルの肉体は崩壊していった。
「マリウス!」
 体全体から振り絞るような叫びとともに、シャードルの全身から血が流れ出て行く。口からだけではない。耳や鼻、目からも濁りきった血液が噴き出していた。シャードルの体は見る間に干乾びていくようだった。
「シャードル……。」
 マリウスと牢番の二人は、どうすることもできなく、悪夢のような光景に見入るばかりだった。激しく痙攣する体を、不気味な白と黒の斑点が覆い尽くしていく。一旦動きを止めたシャードルは、もう二回、激しく痙攣してからぴくりとその動きを止め、そして目を閉じた。
「マリウス様……。」
 牢番がほっと息をついた瞬間、シャードルの両目が再びかっと見開き、こちらを睨みつけた。そして、ゆっくりとその口が開く。たらたらと黒い血を流しながら、シャードルは、がらがらの声で告げた。
「ローファは、生きて……。」
 シャードルの体は、それからもう一度だけ痙攣し、そして永久にその動きを止めた。
「ローファが、生きて、いる……?」
 マリウスは、全身から急に汗が吹き出すのを自覚していた。

三、

 マリウスがシャードルの死を目撃してから、一週間余り。
『ペスメアソリスに怪物が出現、アディギルアの駐留軍は全滅。』
 真夜中、衝撃的な知らせがアディギルアにもたらされた。反乱の終結にともない、軍の規模が倍増されたばかりだったのにも関わらず。しかも、その中には、アディギルアの中核を担う精鋭も含まれていたのである。
 アディギルア貴族たちは叩き起こされ、王宮では緊急の会議が開かれることになった。
「本当なのか? ペスメアソリス反乱軍の生き残りではないのか?」
 誰もがそう疑って参内したのだが、グレライオス王に、報告と同時に死んだ伝令の死体を示されると、疑いを捨てるしかなかった。左腕は何かに食い千切られ、その切り傷は、強烈な毒のせいか、溶け出していた。しかも、残った全身を白と黒の斑点が覆い尽くしている。かなり吐血したのであろう、拭いきれない血痕が口の下に伸びていて、全体がだいぶ萎び、干乾びているようだった。人知を越えた何かと遭遇し、殺されたことに間違いない。さらに、一部の、地下牢での出来事を知るものたちは、シャードルの死体と同じ状態にあることにも気付いた。もっとも、理由などはわかるはずもなかったのだが。
 グレライオス王が、むしろ淡々と説明した。
「話では、百の瞳と、九つの首を持つ大蛇だという。首を一つ揺らすたびに、数十の兵の体が飛び散ったらしい。毒の吐息を吐くたびに、風下の隊はみな倒れたと。山のような巨体で、鋼鉄のごとき鱗に覆われ、あらゆる剣も、いかなる槍も、無数の矢をもはじき返したそうだ。こやつは、この伝令は、もとは暗殺者で、毒の耐性訓練を受けていた。だからこそ、ここまで辿り着けたのだろうが……。」
 グレライオス王は嘆息すると、もう一度伝令の死体を凝視した。
「……して、どうする?」
 一同に問い掛ける。辛い疲労を感じさせる様子であり、偉大な王の弱りきった声を聞くのは皆はじめてであった。けれども、答えはない。アディギルア軍の三分の一近くが殲滅させられたのだ。うかつに手を出すわけにはいくまい。かといって、もしアディギルアを目指して動きはじめたら……。
 将軍たちも、貴族たちも、顔を伏せたままお互いに視線を送り、はたと気付く。そのとき、グレライオス王も呟いた。
「マリウスはどうした……?」
 この状況を解決してくれる人間が存在するとしたら、それはマリウスであろう。アディギルアの未来はマリウスに託すしかない。誰もがそう思う。
「はっ。急使を送ってありますので、間もなく到着するかと……。」
 衛兵が王に答える。マリウスの館は王宮からも近いはずだが。誰かが、そんなことを思った直後に。
「マリウス、参上致します!」
 マリウスが現われた。一同は息を呑む。完全武装の出で立ちだったのである。マリウスは腰に剣を差し、盾を背負い、左脇に兜も抱え、鎧を纏っていた。宮中での武器の携帯は一切禁じられているのだが、誰もそんなことを指摘する余裕はなかった。アディギルアの注目を一身に集め、マリウスは宣言する。
「ペスメアソリスの怪物、わたくしが出向き、退治しましょう。如何なる応援も無用に願います。皆様方は、ただエルラントス神のご加護をお祈りください。」
 それから、マリウスは付け加えた。
「思えば、これは天上からの試練。飢饉と疫病と反乱とはこの前兆かと。かの怪物めを倒せば、全てが好転いたしましょう。」
 グレライオス王はうめいた。感嘆したのかもしれない。
「一人で、とな? 配下の兵は要らんのか?」
 マリウスは跪いた。
「配下の兵を連れて打ち勝てるものならば、はじめからアディギルアの駐留軍が解決していた問題だったことでしょう。加えて、ペスメアソリスは我が故郷、自らの手で那を取り戻したく思います。どうか、陛下の許しを下さいますよう。」
 グレライオス王は立ち上がる。
「よし。マリウス、行ってくれ。」
 それからまた、付け加えた。頭の中に、養女のカーネアのことが思い浮かんだ。
「しかし、これは王命ではない。アディギルアの願いだ。そなたは望まぬかもしれぬ。が、もし生還すれば、そなたをこのアディギルアの後継者に指名しよう。これは困難な帰郷になりそうだが、わしにはそれぐらいしかできぬ。マリウス、頼む。」
 マリウスの勇気に敬意を表し、一同が膝をつく中、マリウスは宮殿を退出した。しかし、マリウスが王の言葉に答えなかったことに気付くものはいなかった。

 マリウスが館に戻ると、カーネアが待っていた。
「どうしても、どうしても行くのですね?」
 こんなにも引き留めたいのに、それでも無理なことがわかっていて、カーネアは涙を流すしかない。マリウスはもはや自分を見ていない。マリウスが変わったのは、ペスメアソリス壊滅の報を聞いてからではなかった。シャードルとかいう男と面会した、その後だ。だから、もしこのまま行かせたら、マリウスは二度と自分のもとへは戻ってきてくれない。カーネアにはわかっているのに、しかしマリウスを繋ぎ止めることができないのもわかっていた。
「はい。どうしても行きます。」
 マリウスは穏やかに微笑む。はじめての二人きりのとき見せたような荒々しさは、すっかり消え去っていた。カーネアは嗚咽をもらしながら尋ねる。
「……せめて、理由を聞かせてください。」
 わたしのことを愛していますか、とは聞けなかった。それで、カーネアはもっと馬鹿な質問を選んでしまった。
「わたしが愛し、守ると誓った人のためです。」
 カーネアはマリウスにぱっと抱きついた。が、鎧の上だ。抱擁は冷たかった。マリウスは、軽くカーネアを叩き、一言だけ囁いた。
「すみませんでした。」
 それだけで、マリウスは背中を向けた。
「わたしは……。」
 カーネアは呼びかけたようとしたけれど、言葉が続かない。この結末を、はじめから想像していたのかもしれない。カーネアは、その場に泣き崩れる。
「ローファ……。」
 マリウスは、振り返ることもせずに歩き去っていった。

四、

 ペスメアソリスへ向う道も半ばを過ぎた頃。折しも、マリウスがアディギルアに降伏宣言をした辺りであった。マリウスの前方に立ち塞がり、そしてマリウスを呼び止めるものがいた。
「マリウス!」
 巫女装束の女性である。
「何か用ですか?」
 マリウスが仕方なく馬を止める。
「お久しぶりです。」
 女は、エルラントス神殿の巫女、レドーラだ。ローファは死んだ、そうマリウスに伝えに来たローファの親友である。マリウスは、一旦口を開きかけたが、思いとどまって静かに溜息をついた。
「レドーラ殿。お久しぶりですね。それで、わたしに何か御用ですか?」
 マリウスは、改めてローファの生存を信じるようになっている。だが、一時でもローファを諦めてしまったのは自分の迷い故である。それでも、口調に皮肉が浮かぶマリウスを、レドーラは辛そうに見つめる。
「ローファは、死んでいません。」
「そうですか。」
 何を今更、マリウスはそう思いながらもゆっくり頷き、それからしばし目を閉じた。やはりローファは生きていたのか、ずうずうしいとは自覚しながら、マリウスは考えていた。右手にはまだ、ローファの髪の輪が結んである。一方、レドーラは堰を切ったように語り始めた。
「わたしは……、わたしは、マリウス様に真実を告げるつもりでした。けれど、わたしも裏切りものだったのです。ローファの為には何でもすると誓ったのに。マリウス様が、いつまで待っても帰ってきてくれなかったから。それに、マリウス様が、ローファなしでも幸せそうなのを見て……。」
 けれども、ローファの死を聞いたマリウスがあまりにも悲しそうだった。そして、今も、目を閉じているマリウスにはローファしか見えていないのだろう。レドーラは最後まで思いを語ることはできなかった。マリウスが、かっと目を開いた。マリウスを乗せた馬が嘶いて前足を上げる。
「今、ローファはどこに?」
 マリウスが尋ねると、レドーラは遥か前方を指差した。
「ペスメアソリスに。けれど、ローファはペスメアソリスの怪物に囚われています。」
 レドーラは、ペスメアソリスの方角を見つめながら、涙を流した。
「怪物はペスメアソリス東の森に潜んでいます。そして、この試練に立ち向かえる勇者は、世界でマリウス様しかいないでしょう。わたしからもお願いします、かの大蛇を倒し、ローファを救ってあげてください。そして、ローファにした約束を果たしてあげて……。」
 マリウスは、それには答えずに、馬に鞭を入れた。マリウスは、レドーラと別れ、ペスメアソリスに向けて駆けていった。

五、

 軍靴が踏みしめるべとべとに濁った土の道、生温かい風に漂う血の匂い、辺りの命の気配は全く絶え、足元から吹き出る瘴気が時折身を震わせる。
「もうすぐだな。」
 先ほどまでごろごろと転がっていた屍も、今はもう見かけない。代わりに、不穏な邪気だけが高まってきた。緊張を高めるために、剣を持った右手をぐっと握り締め、左手の盾で枝を払いながら、マリウスは呟いた。勇者は一人、ペスメアソリス東の森に踏み込んでいた。静かな、何かの前触れのような夜だった。枯れ果てた樹木の間には、月の光を遮るどんよりとした灰色の霧が広がっている。
 やがて、マリウスは森の泉に辿り着いた。泉は既に濁り、かつての面影はない。ペスメア・リリーもほとんどなくなっていて、ぽつりぽつりと、今にも毀れ落ちそうなものが数本散らばっているだけだった。マリウスは歩みを止め、近寄ることのないまま、その、なお白い花を見つめていた。
 そして、霧の向こうから、ゆっくりと黒い巨体が姿を現す。ぽつりぽつりと赤い星が灯る。禍の元凶が目を覚ましたのだろう。辺りの霧が、すうっと泉の方へ、災厄の大蛇へと吸い込まれていった。上空の半月が、泉に九つの影を落とした。
「ペスメアソリスの怪物……。」
 伝え聞いていた通りだった。黒き山のような巨体から、ゆらゆらと長い九つの首が生えていた。全身に浮かび上がる無数の眼が赤い光を放ち、禍々しき視線に全身を貫かれる思いだ。蒸気のような音をたてては開く口から、真紅の、剣のような牙が輝く。時々、緑色の涎が垂れ、ぶしゅぶしゅと土が焦がしている。
 怪物は、悠然としてこちらを眺めている様子だった。九つの首は、時折、思い出したように揺らめき、開かれた口から猛毒が零れる。それだけで、襲い掛かってきたりはしない。しかし、マリウスには、このまま引き返すつもりはない。ぐっと剣を握り締める。
「ローファ……。」
 マリウスは誰にも聞かれないように口の中でその名を唱え、盾を掲げて怪物に走り寄った。遂に、戦いの幕を上げる時が来たのだ。

 悲鳴のような怪物の叫び声が森を振るわせた。マリウスが五本目の首を斬り飛ばしたのである。首は泉に沈み、怪物の真紅の血が、また水を赤く穢していく。毒を浴びて、マリウスの体からは蒸気が立ち上っていた。意識が朦朧とするが、戦士としての本能と、強固たる意志とがマリウスを奮い立たせている。
 盾は既に打ち捨てた。毒液で爛れ、使い物にならなくなったのである。鎧もあちこちに穴があき、牙によって裂かれ、その守りの役目を終えた。しかし、鋼鉄の剣だけが、恐るべき切れ味を鈍らせることなく、怪物の黒き鱗を切裂き続ける。剣を握るマリウスの右手には、ローファの髪で編んだ腕輪が輝いていた。
「ローファ……!」
 一振りごとに体力は奪われるようだが、気力は充実していく。一つ目の首を落としてから、怪物も毒液を吐いて必死に抵抗しはじめた。長く太い首が狂ったように暴れ、マリウスに殺到してくる。
 が、怪物は徐々にその力を失い、衰えていくようだ。マリウスが八本目の首を落とした時、怪物は最後の首を向こうに巡らせて、ふらふらと逃げ出した。マリウスは、一瞬後を追おうとしたが、足が前に進まなかった。マリウスは、赤く、いや、もはや黒く濁りきった泉から這い上がり、そして剣を投げ捨てた。

六、

「マリウス……、マリウス……。」
 ローファは泣きながら走る。全身が炎で焼かれたように熱い。体だけではない、心が激しく悲鳴をあげている。もう傷つくことはないと思っていたのに、それなのに、魂を切裂かれる痛みが止まらない。
「帰ってきたの……。愛しているの……。」
 ローファは泣きながら、約束の丘を目指して走る。いつのまにか、夜は終わろうとしていて、丘の向こうが明るみはじめていた。

「ローファ……。」
 怪物を追ったマリウスは、約束の丘に辿り着いた。怪物の姿はもはや無かったが、マリウスは右手の髪に引かれるように、ぼんやりと菩提樹の麓へと歩みを進めた。そして樹の裏側で、マリウスは再会した。そこに、血塗れになって横たわるローファと。
「マリウス……。」
 枯れ果てた花の寝床の中から、ローファは微かに残った意識を振り絞って口を開く。
「ローファ……。」
 マリウスはローファの傍らに跪くと、ローファをそっと抱き起こす。あちこちで切られた髪が痛々しく、清らかな肌からは夥しい血が流れていた。小さくて可愛い口からも血が零れていた。つぶらな瞳からも血の涙が溢れている。
「マリウス、帰って来てくれたの……。」
 ローファは尋ねたのだろうか。いずれにせよ、その命がもはや絶えようとしているのは明らかだった。
「ああ、帰ってきたんだ。遅れてすまない……。」
 全てを悟ったマリウスが泣くと、ただ一つの真実にローファはにっこりと微笑む。慰めてくれているのかもしれない。心を洗われるような尊い表情だ。
「あやまらないで……。」
 ローファはそっとマリウスの唇に指をあてる。ローファの手は小刻みに震えていた。マリウスは言葉を失う。代わりに、運んできたペスメア・リリーをローファの胸に置いた。ローファの髪を結んだ右手で、剣の替わりにそっと摘んだ、一輪だけのペスメア・リリー。唇に触れたローファの手が、すっと落ちて、純白の花を抑えるマリウスの手に重なった。白い花が、たちまちのうちに赤く染まっていく。ぼんやりとそれを眺めつつ、ローファはゆっくりと瞼を閉じた。ペスメア・リリーの花びらがぽろぽろと毀れていく。
 マリウスはローファに覆い被さり、ローファの愛らしい顔に近寄って言う。
「ローファ、愛しているよ。」
 だが、ローファが再び目を開けることはなかった。マリウスの涙がローファの頬に落ちる。ローファは既に息絶えていたのである。マリウスは、ローファの額に唇を押し付けた。

 やがて朝日が昇り、ペスメアソリスとその一帯の闇を追い払ったが、ローファとマリウスは菩提樹の影に隠されていたので、暁の最初の光が二人を照らすことはなかった。

〔完〕

著作・制作/永施 誠
e-mail; webmaster@stardustcrown.com