Stardust Crown
初版:2001-05-26
地を揺るがすような大歓声。アディギルア軍は、誇らしげに、しかし、整然とした隊列を乱すことなく、ざっざっざっと行進を続けていた。出迎えの楽団が、民衆の歓声に負けじと音を張り上げる。初夏のもう暑い日で、白い雲が猛烈な速度で空を横切っているけれども、地上に吹く風はあくまで緩やかだった。
ここは、アディギルア帝国の首都アディギルア。もとが都市国家であったため、国と同じ名を冠する大きな街である。ペスメアソリスと似た感じの構えであるが、建物がかなり密集していて、使われている石材が赤っぽいのが印象的だ。家々の屋上は繋がっていて、そこからも多数の市民がこちらを見物している。
マリウスは、久しぶりに都市特有の懐かしい匂いを嗅いだ。しかし、明らかにペスメアソリスのそれとは違う。戸惑いながら、マリウスは馬をゆっくりと進めていた。ペスメアソリスの他の兵たちとは離されている。そして、マリウス付の将校は、民衆の歓喜に、にこやかに手を振って答えていた。
(ローファ……、やはりペスメアソリスに帰ろう。)
マリウスは考えていた。ペスメアソリスの乙女たちは、自ら髪を切るようなことはまずしない。だから、ローファに何かあったのは間違いない。とはいえ、死んでしまったものとは限らないではないか。あるいは、マリウスが死んだものと誤解したのかもしれない。しかし、そこでマリウスは考え込んでしまう。ローファの髪を持って来たのが元老派の連中だった事実はどう説明すればよいのか。
(生きていてくれれば、それだけで。)
マリウスはエルラントス神に祈った。
「マリウス殿! マリウス殿!」
ふと気付くと呼ばれている。監視役の将校が肩に手をかけてきていた。
「失礼! 何か!」
マリウスは叫んで答える。相手は苦笑した。
「この歓声ですからな! さあ、こちらに御出で下さい!」
祝賀の列をそっと抜ける将校に、マリウスは黙って着いていった。
「まあ、ペスメアソリスの敗北を祝う行進に付き合わせるのも何ですから。」
裏道に入り、歓声が遠のいたところで、将校はうっすらと笑った。勝者特有の優越感を満喫しているのだろうか。マリウスは肩をすくめて答える。
「それで、どちらへ向うのです?」
「王の間へ、陛下がお待ちです。」
将校は振り返り、そして付け加えた。
「下手な考えは起さぬことですぞ。」
ローファに会いたいだけだ、別にアディギルアに恨みはない。マリウスは苦笑いするしかなかった。
アディギルアの民の大歓声は、王の間まで届いていた。それだけに、ここの静けさがより一層際立つことになっている。広間には、赤き竜と青き鯱とが描かれた長い長い絨毯が敷かれている。その先に玉座があって、グレライオス王が君臨している。まだまだ頑健だが、初老を迎え、長く伸ばした髭にも白いものが混じり始めている。
脇に控えるのは、その姪の王女カーネア。子供に恵まれていないグレライオスが、最近になって迎えた養女である。一族にも残念ながら男子がいなかったので下した苦渋の決断であった。カーネアは、そんな立場にあっても、気の強そうなきりりとした顔立ちを崩していない。
二人は、広い部屋の向こうにある扉、絨毯の反対側を見据えている。群臣たちも、一様に扉を意識していた。
「マリウス殿、参上なされます!」
扉の左右に控える近衛兵が声をあげる。いよいよ、正面からは倒しきれなかったペスメアソリスの勇士を、アディギルアに迎えるのだ。一同の注視する中、マリウスがゆったりと姿を見せた。
「お招きに預かり、光栄の限りにございます。」
マリウスは、入ってすぐに膝をつくと、ペスメアソリス式にグレライオス王に一礼した。そして頭を下げたまま、その場に留まった。この宮殿に自分の居場所は用意されていない。自分のこれからはグレライオス王が決めるであろう。
廷臣たちも、マリウスの処遇については何も聞いていない。それで、マリウスとグレライオス王とを交互に眺め、グレライオス王の言葉を待っていた。しかし、当のグレライオス王は何も答えず、じっとマリウスを見詰めつづけるばかりである。
畏まったままのマリウスは、ずっとローファのことを考えていた。今回の敗戦は、クロティール家を筆頭にした元老派の策謀が原因だろう。イリシャールの家印が持ち出され、悪用されているからには、兄も無事ではいまい。そして、ローファの髪だ。ローファは、元老派の手に落ちた。
マリウスは、右手首を意識した。ローファの髪を腕輪に編んで、お守りのように巻きつけているのだ。
(ああ、わたしはローファを守ると誓った。だが……。)
マリウスは、静かに佇むのみである。そして、アディギルアの廷臣たちの方がそわそわし始めた頃、遂にグレライオス王が告げた。
「面を上げい。」
マリウスは、その言葉に、ゆっくりと顔を上げ、まっすぐに王の顔を見た。一見して思慮深く、勇敢なる眼差しがある。じっとこちらを見据えている。
王女カーネアは、それまで、王は何をお考えなのか、と怪訝に思っていた。しかし、マリウスが面を上げてからは、マリウスの端正な造作に見とれるしかなかった。
(美しいお方……。)
勇猛なる将軍ということで、かなり荒々しい、獣のような男性を想像していたのだが、マリウスは美しい青年である。それも、人形のような華奢な美しさではない。鍛えられ、力強い男らしさの中にも、優しく頼りたくなるような雰囲気を感じる美しさなのだ。
廷臣たちも、この将軍が我が軍を苦しめた……と、ある者は感心して、またある者は驚きをもってマリウスを眺めている。
だが、マリウスはそのような視線を意に介することはなかった。マリウスには、憎しみも怒りもない。媚びも諂いもない。ただ、王の姿を通して、その中に自然に現われるはずの、広大なるアディギルアの地、そしてその向こうのペスメアソリスを見出そうとするのみであったのだ。
と、グレライオスが立ち上がった。さすがは帝国の覇王、威厳に溢れる仕草であり、カーネアと廷臣たちは一斉にグレライオスに目を向ける。マリウスもいよいよかと、少しだけ身構える。グレライオス王が声をあげる。
「マリウスよ、汝は戦場において知者であり、勇者であった。裏切りにあっても忍耐と責任とを見せ、そして、この宮殿においても、誇りと謙虚さとを失うことはなかった。」
マリウスがはじめて戸惑いを示したので、グレライオスは労わりの笑みを浮かべる。そのまま玉座から降り、マリウスの側へと歩を進める。
「マリウスよ、汝を我がアディギルアに迎えたく思う。我が剣を受け取れ、そして我が帝国を支える柱の一つとなってもらいたい。」
グレライオスは、マリウスに手を差し伸べた。マリウスの目に、ごつごつとした、そして恐れも疑いも持たぬ手が映る。マリウスは、しばらく迷ったが、しかし結局はその手を取った。そして、恭しく口付けをする。
カーネアは、その様子を湧き上がる感動を持って眺め、心の中で呼びかけた。
(ようこそ、我がアディギルアへ……。)
その夜、アディギルアでは戦勝の宴が開かれた。どういうわけか、マリウスも招かれた。極めて複雑な心境ではあったが、グレライオスに仕える道を選んだからには断ることもできない。マリウスは、出席はするものの、控えめに振舞うことにした。
ところが、宴がはじまると真っ先にグレライオス王が近づいて来た。しかも、グレライオス王は、よりによって、アディギルアが敗戦を重ねた理由を尋ねてきたのである。たちまち、マリウスは宴の中心に置かれてしまう。それでもマリウスは、自分の率いるペスメアソリスが連勝した理由を、冷静に客観的に解説した。戦に対して特別な怨恨は抱いていなかったので、気負うこともない。グレライオス王は、マリウスのそんな姿勢が気に入った様子だった。マリウスの方も、グレライオスの的確にして謙虚、しかも堂々とした質問に、アディギルアの王が名君であることを理解した。
マリウスは、グレライオスとの会話を終えると、そのまま早々に隅の壁に引っ込んでしまう。自分の役目は果たした、と判断したのだ。周囲を拒絶するように静かに目を閉じ、じっと思索にふける。せっかくの招待である、すぐに奥に下がるというわけにはいかない。けれども、別に宴を楽しまなければならないこともないだろう。
マリウスがアディギルアに残るのを選んだのは、ローファを思ってのことだった。まず、最もありそうなのは、ローファがクロティール家に囚われている場合である。そうだとしたら、クロティール家も同じアディギルアの傘下に入ったのだ、グレライオスにより近い立場を得れば、ローファを取り戻すのも不可能ではなくなるだろう。もし、無事にペスメアソリスに居るのなら、それに越したことはない。彼女をアディギルアに招けばよいだけだ。
(ローファ、必ず君と再会してみせる。)
マリウスの決意は変わらない。いずれにせよ、ローファがどこでどうしているか、をまず調べる必要がある。動転したときには、すぐにでもペスメアソリスに戻ろうかと考えた。しかし、何も知らないまま、アディギルアで一定の力を持たないままに、ペスメアソリスへ直接出向くのは危険だ。元老派、特にシャードルが真っ先に自分を殺そうとするに決まっている。さすがに、シャードルが自分を一方的に敵視していると知っていたのだ。やはり、ペスメアソリスから事情をよく知るものを呼び寄せるのがよいだろうか。
「マリウスさま?」
と、マリウスを呼ぶ声がした。仕方なく目を開けると、女官の一人らしき貴婦人が艶然と、しかし少し緊張した様子で微笑んでいた。じっとこちらを見つめる、つぶらな瞳が酒のためか潤んでいた。
「お一人ですよね。私も相方がいないんですの。もしよろしければ、ご一緒して下さいませんか。」
美しい女性ではある。マリウスはしかし、穏やかに微笑んで、丁重に断った。
「失礼、ご容赦下さい。」
それから、わざと大きな声で付け加える。
「ペスメアソリスに妻を残してきていましてね。」
相手が無念そうに去っていくのを見送ってから、マリウスはまた瞳を閉じた。
カーネアは、遠くからマリウスのことを見つめていた。どういうわけか、マリウスのことが気になって仕方ないのである。と、女官の一人がマリウスに声をかけたのが目にとまる。豊満でなかなか美しい女だ。はらはらして見つめていると、マリウスが何か答えた。女は哀しげな表情をして、すぐに離れていく。マリウスに断られたらしい。思わず、ほっとする。そこでカーネアは、はっと気付いた。
(もしかしたら、この気持ちが恋なのかしら。)
今までどんな男にも心惹かれたことはなく、ただ養父の決めた相手と結婚するのだろう、と考えていた。王族には、恋など邪魔なだけだと思っていた。しかし、この燃えるような思いは何だろう。
カーネアは、側にあった鏡で自分の姿を見つめ直してみた。白い肌には張りがあり、燃えるような赤い髪、赤い瞳を引き立てている。髪にさした青い花が、負けん気の強い彼女を、今夜だけは慎ましい女の子に変身させてくれているような気がする。
(ペスメアソリスにはマリウスを待つ誰かがいるのかな。)
カーネアはふと思った。
「カーネア様、踊りませんか?」
そのとき、若い貴族がカーネアに声をかけてくる。
「ごめんなさい、ちょっと。」
思索を中断されたカーネアは一方的に拒絶。きっかけができたので、そのままマリウスの方へと歩き出す。息が詰まるような気もする。マリウスは、また相変わらず目を閉じて、じっと壁によりかかったままである。遠巻きにマリウスを囲む何人かの婦人たちが、美しき勇者に憧れの視線を送っていたが、目を瞑っている相手が気付くことはありえない。
カーネアが、ようやくマリウスに声をかけようかという距離まで近づいたとき、マリウスがふと目を開けた。ちょうどカーネアと視線が合う。憂いを含んだ奥深い瞳だった。カーネアは思わず立ち止まってしまった。たちまちに心臓が早鐘を打つ。しかし、それはほんの一瞬にすぎなかった。マリウスはすぐに視線を逸らし、そのまま足早に、宴の広間を退出してしまったのである。
(拒絶されたの……。)
カーネアは、騒々しい宴の席に呆然と立ち尽くす。生まれて始めて知る悲しみに、カーネアは胸が締め付けられる思いだった。
月日が流れるのは早い。マリウスのアディギルアでの一年は早くも過ぎ、いま二度目の夏を迎えていた。海に近いペスメアソリスとは異なり、かなり乾燥した暑さである。マリウスは、与えられた館にいた。貴族たちの居住区でも、かなり王宮に近い所に設けられている屋敷である。
マリウスは、だいぶアディギルアでの暮らしに慣れてしまっていた。グレライオス王は本物の名君であり、マリウスの優れた能力を使いこなす。マリウスは、主君に仕える誇りすら覚えはじめていた。
王の方も、才気溢れるマリウスを寵愛し、それまでの王宮の一室に代えて、このような広い館を用意してくれたのだ。マリウスは知らなかったが、グレライオスは、息子が生まれ、妻を娶ったら与えるつもりだった屋敷である。アディギルアの貴族たちは高潔な人物が多く、マリウスの成功を妬むものは少なかった。そして、マリウスは実際に優秀なので、その実力もすぐに認められるようになった。おかげで、マリウスはアディギルアの貴族として、確固たる地位を築くに至ったのである。
(ローファ、君のことは忘れない……。)
だが、マリウスは自らを戒めるように右手を握り締める。左手でそっとローファの髪に触れる。生活に慣れるにつれ、ローファに対する熱情が冷めてくるのを自覚していたのだ。
それなりの手は打った。新しくできた友人からは、ペスメアソリスの噂を集めている。自分でも何人かの部下たちをペスメアソリスに送り込んだ。
現在のペスメアソリスは、名目的にはクロティール家の支配下にある。しかし、アディギルアからも、共同で統治にあたる何人かの提督が送り込まれている。ペスメアソリス軍も解体されたことだし、ペスメアソリスがアディギルアに呑みこまれるのも時間の問題だろう。
「イリシャール家に支配権を渡すくらいなら、グレライオスを王に迎えた方がましなのかもしれんな。」
マリウスは兄の言葉を思い出す。そのアウレウスは殺された。イリシャールの家印を守ろうと最期まで戦って。イリシャール家のわずかな生き残りはマリウスを頼り、アディギルアに移って来ている。この屋敷にも何人かを住まわせている。ペスメアソリスでのイリシャール家の力は失われてしまったのだ。民衆の多くは、騙されてしまったようで、マリウスこそが裏切り者だと信じ込んでいるという。
そして、ローファの所在を知るものは見つからなかった。ペスメアソリスから裏切りの援軍が出発するその前日に、森の泉に出かける姿を見られて以来、行方不明だという。
「マリウスさまが帰ってくるその日までペスメア・リリーを絶やさないように。それが口癖でして、ほとんど毎日のように、泉まで花を摘みに行っていたんですよ……。」
ある者が教えてくれた。そして同じ日、ローファを探すシャードルたちが森の泉に出かけたともいう。そこで、誰もが耳打ちする。
「きっと、殺されたんです。そうでなければ、酷いことをされて自殺なされたのでしょう。」
状況からは、それも妥当な判断のように思える。
(わたしはどうすればよいのだ……。)
マリウスは途方にくれた。居場所がわからなければ会うことはできない。マリウスは、その気を紛らわすために、アディギルアでの職務に励んできたのである。そのためもあって、ペスメアソリスには一度も戻っていない。いや、帰ろうかと何度も迷っているのだが、そのたびに、何か新しい執務を見つけては帰郷を先送りにしていた。正直、もはやペスメアソリスには行きたくなかったのだ。
しかし、そうしてペスメアソリスを遠ざけていると、どうしてもローファへの気持ちが薄れていってしまう。自分ではどうしようもない。
この日も、マリウスは悩んでいた。そして、ふと何気なく窓の外に視線を送る。召使たちが青々とした芝生にせっせと水を撒いているのが見えた。
(少し贅沢すぎるか……。)
マリウスは心の中で考え始めた。春になってから、ゼファースト南西部では雨に恵まれない天候が続いている。豊富な雪解け水で潤うトゥリス河さえも、夏になってから、さすがに細り始めた。おかげで、アディギルア中の田畑が干乾びつつある。このまま雨が降らなければ作物は全滅してしまう。貴族たちの邸宅に水道を送る余裕が残っているならば、農業のための用水こそを考えなければならない。
(陛下に進言すべきことがまた一つ増えたな。)
マリウスはさらに考える。加えて、最近は家畜の間に疫病が流行り出しているという。アディギルアの産業の根幹は農業と牧畜にある。この両方に打撃を受けることになるのだ。広い領土を有するが故に、この帝都ではまだ食糧不足などの問題は表面化していない。が、中央部の食糧確保のために無理な徴収を断行し続けるならば、反乱の種を各地に撒くことになってしまうだろう。
(日照りや疫病は人の力ではどうすることもできない。しかし、人が人同士で傷つけあう無用な戦いならば止められよう。)
マリウスは信じていた。
「マリウス様、マリウス様!」
そのとき、家人の一人が興奮した様子で部屋に駆け込んできた。
「どうした?」
マリウスが顔を向けると、呼吸を整えつつ報告する。
「ローファ様の行方を知っている、と称すものが……。」
マリウスはびくりと立ち上がった。
「すぐに通せ!」
それから案内されてきたのは、頭巾で顔を覆った女性であった。マリウスが家人を下がらせると、女性は喋り始めた。
「ようやく貴方と出会うことができました。」
ペスメアソリスの訛りだ。マリウスが驚く中、女性は頭巾を外した。
「お久しぶりです、マリウス様。覚えておいでですか。」
しかし、もちろんローファではなかった。……そうだ、レドーラとかいったか、エルラントス神殿の巫女だ。ローファの親友であり、クロティール家の末の娘でもある。
「レドーラ殿ですか?」
マリウスが何とも言えない気持ちで確認すると、レドーラは哀しそうに微笑む。
「はい。」
それから、レドーラは胸元に手を置き、呼吸を整える。そうして、唇を震わせながら、やっとマリウスに告げた。
「ローファは、ローファは死にました。とても、とてもつらいことがあって、毒を呷り、自らの命を断ったのです。わたしが、この手で看取りました。」
マリウスは言葉を失い、レドーラを凝視する。
「最期に貴方に伝えたい言葉があると。」
レドーラの声が震えはじめた。マリウスも同じく声を震わせて尋ねた。
「何と?」
「あなたの帰りを待てなくてごめんなさい。わたしには、もうあなたに愛される資格はありません、と……。」
最後まで言い切れずに泣き崩れたレドーラを、だいぶ遅れてからマリウスは抱き締めた。マリウスも、いつのまにか涙を流していた。
そして、夜になっても、マリウスは衝撃から抜け出せずにいる。ローファが自殺した。あの後、レドーラの聞かせてくれた詳しい話が、繰り返し繰り返し頭に蘇ってくる。
「兄のシャードルは国を売りました。同時に、ペスメアソリスにおいて軍閥派に対する攻勢をはじめたのです。アウレウス様を殺したのはもうご存知でしょう。兄は貴方を憎んでいます。ローファはその憎しみに巻き込まれ、泉の側で暴行を受けたのです。」
マリウスは、もはや怒りを感じることさえできなかった。ただひたすらに、抑えきれない悲しみだけが湧き上がってくる。
「わたしが駆けつけたときには、既に毒を飲み干した後でした。わたしは、何もしてやれませんでした。」
ここで、レドーラは一旦言葉を切り、目頭を抑えた。
「ローファはわたしを認め、最期の言葉を託したのです。はじめ……、はじめは貴方の帰りを待つつもりでした。けれども、なかなかお戻りにならないので、人の噂に聞けば、アディギルアに屋敷を構えておいでだとか。それで、兄の目を盗んで、こうして会いに来たのでございます。だから、どうしても遅くなってしまったのです。」
マリウスはじっと目を閉じたまま泣いていた。右手首のローファの髪に手を添える。レドーラは、それに気付き、続けた。
「ローファは……火葬にされ、ご両親が遺灰を海に流しました。お墓を造っても兄に暴かれるだけでしょうから。だから、貴方がお持ちのその遺髪が、最後の思い出の品です……。」
幸せだったローファの姿が心に浮かんでは消えていった。
(ローファ、わたしが必ず守ると誓ったのに。花束を持ち帰ると約束したのに。)
辺りが暗くなったことに気付き、やっと目を開いたときには、レドーラは既にいなくなっていた。代わりに、ぎぎぎぎ、と音をたてて扉が開き、廊下の明かりが差し込んできた。遠慮がちな召使が呼びかけてくる。
「マリウス様……。」
マリウスは答えない。
「マリウス様……。マリウス様。マリウス様!」
何度呼びかけてもマリウスは返事をしない。ばたばたと廊下に足音が響き、ひそひそ声がした。マリウスがいつまでたっても答えようとしないので、召使がとうとう告げた。
「マリウス様! カーネア殿下がお越しです……。」
王女殿下が、お一人で、しかも夜に訪問されているのだ、主人の同意がなくても止むを得まいか、召使は判断したのである。マリウスは、それでも反応を示してくれなかった。
事情を知らないカーネアは、自分が情けなくなっていた。夜、男が女の屋敷に押しかけるという話はよく聞く。随分恥知らずなことを、と思っていたものだ。ましてや、女が同じことをするなんて聞いたこともない。ただでさえ気恥ずかしい罪悪感を覚えていたのに。
「マリウス様は、お眠りのご様子でして、目を覚ましてくれないのです。」
そんなはずはない。カーネアは、自分が無視されているようだと気付いた。マリウスが喜んで出迎えてくれるとは決して期待していない。もちろん、想像はしたけれども。けれども、会うのが嫌ならば、きっぱりと断ってくれた方がよかった。諦めてすぐに帰ったのに。結局、長く待たされたあげくに、強引に通してもらう形になるなんて……。もっとも、カーネアは帰ってしまってよかったのだ。いや、帰るべきだった。カーネアはわかっていながら、通してもらわずにはいられなかった。
「マリウスさま……。」
カーネアは、やけに暗い部屋に踏み込んだ。家族以外で、殿方しかいない部屋に入り込むのは始めてである。もしかしたら、本当に眠っていらっしゃるのかしら……。否。マリウスは眠ってはいない。マリウスは、月の、信じられないくらい荘厳な光を浴び、じっと椅子に腰掛けていた。目が開かれていて、窓の外の月を見つめている。そんなマリウスの姿を目にして、カーネアはここに来るまでの全てを忘れた。
「マリウス、さま……。」
時間でさえ戸惑っているのか。マリウスが頭をもたげてこちらを見るまでに、カーネアは永遠を感じた。
「カーネア……。」
館の主人は、ようやくカーネアに気付き、上の空のような口調で呟いた。しかし、すぐに顔を背けてしまう。人形のようなマリウスにようやく表情が浮かんだ。
「マリウス……。」
またわたしを拒絶するのね。カーネアは泣きたくなった。カーネアの耳に微かな嗚咽が聞こえてくる。ああ、わたしはまた泣いてしまったのかしら……、いや違う! マリウス! 泣いているのは、マリウスだ。
カーネアは我知らずマリウスに歩み寄り、ぎこちない母親のようにマリウスを包み込んだ。マリウス、お願いだから泣かないで。貴方が泣いているのを見るなんて、わたしには耐えられない……。
と、突然、カーネアは荒々しく抱き締められた。椅子ががたんと音をたてる。
「マリウス……。」
マリウスはそのまま、奪うようにカーネアの唇を塞ぐ。哀しいのか、それとも嬉しいのか、自分でもわからずに泣きながら、それでも真心をもって、カーネアはマリウスに応えた。
第四章に続く
著作・制作/永施 誠